「りえママ」という愛称で呼ばれていた、宮沢りえの母、光子さん。2014年に他界したが、宮沢りえが芸能界で活躍する縁の下の力持ち的な存在として、りえママは尽力していた。
今回はそんな彼女の偉大さを述べるとともに、当時の宮沢りえの人気についても振り返っていく。

センセーショナルだったサンタフェ発売


1990年代、爆発的な人気を誇った女優、宮沢りえ。社会現象ともなったのが、1991年に発売したヘアヌード写真集「サンタフェ」だ。ベストセラーとなり、ヘアヌードが容認され始めたこの時代において、その先駆け的存在となった。この写真集発売を巡り、当時は様々な噂や憶測も飛び交った。

時を経て、2015年7月24日。この日に放送された「ヨルタモリ」の中で、「サンタフェ」を撮影した篠山紀信と宮沢りえの共演が実現した。
番組内では「サンタフェ」発売当時の裏話や、未公開ショットも公開され、話題となった。
そのとき、特に印象的だったのが、発売に至るまでの経緯だ。本人達が語るには、なんとこの写真集発売することについて、りえママは容認しており、むしろ乗り気ですらあったのだ。宮沢りえが18歳になったことで篠山紀信がりえママに「もうそろそろヌードでも」と冗談半分で持ちかけたところ、「キレイなお宝は若いうちに撮っておいたがいい」というような主旨の発現を返したという。肝が据わっている者でないとできない芸当だろう。

マネージャー兼母親として宮沢りえを支えた


1990年代、宮沢りえの人気は絶頂を極めていた。女優としての活動以外にも、1990年にはNHK紅白歌合戦に出場したり、前述の「サンタフェ」発売前に17歳の頃には「ふんどしカレンダー」というユニークなものを発表したりと、芸能活動は多岐に渡っていた。
その全てを支えたのが、当時マネージャーを務めていたりえママである。多感な時期にトップアイドルになった彼女は、それ故の苦悩もあった。
一時は、スキャンダルを暴露されたり、マスコミからバッシングを食らったりと、とても辛い状況にあり、実際、一時期事実上の芸能活動休止となった。そのときに、娘でもあるりえをしっかり支えたのがやはり母であった。おおらかな性格で何事も肯定的に捉える彼女の存在は大きく、それが彼女の復活を後押しさせ、自由な表現の幅を広げていくことにも繋がったのだろう。

宮沢りえが語った感謝の気持ち


2014年にりえママが死去した際に、娘であるりえはFAXで彼女の死を悼みながら、自分自身がこれから逞しく生きていく旨を発表した。
彼女は母から与えてもらった全てを「宝物」と表現している。
人気のタレントの母ということで表舞台に出てきてもよかったであろうりえママだが、そうすることはせずにあくまで彼女を影で支え続けた。それは仕事上のみならず、2度の結婚と離婚を経験したプライベートでも彼女の存在は大きかっただろう。そんなりえママの功績は、最大限に評価されるべきだ。