プロレス界のスーパースターといえば、古くは力道山であり、それに続いたのがアントニオ猪木とジャイアント馬場の二人だ。
ジャイアント馬場が死去して17年。
昨年には17回忌も行われた。そんなジャイアント馬場について振り返ってみたい。

元巨人の投手だったジャイアント馬場


ジャイアント馬場は元々は読売ジャイアンツの投手であった。しかし風呂場で転倒し、利き腕の右手を負傷したためにプロ野球選手を断念。
知り合いであった力道山に請われて当時の日本プロレスへ入門し、アメリカ遠征でプロレスラーとしての才能を開花させた。

その後、1972年に全日本プロレスを旗揚げし、プロレスラーとして当時最高峰といわれたNWA世界王座を三度獲得。また、強豪外国人を次々と呼ぶなどプロモーターとしても評価されていた。

選手の育成も怠らず、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明など数多くの弟子を育てあげ、プロレス界に多くの功績を残す。

タレントとしても活躍したジャイアント馬場


また、馬場は数多くのテレビ出演を誇った。日本テレビ系列で放送されていた『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』に出演し、司会の逸見政孝と軽妙なやり取りでお茶の間を沸かせる。
他にも、ビートたけしが『ビートたけしのオールナイトニッポン』で「車のサンルーフから頭を出して運転していた」、「ゴルフでカップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった」などと馬場のことをよくネタにしていた。

ジャイアント馬場の死後、全日本プロレスは混迷


全日本プロレスは1998年には東京ドームに進出し、さらなる飛躍が予想された。しかしその矢先、馬場は12月の武道館大会後に体調を崩し入院。翌1999年1月31日に転移性肝臓ガンにより死去してしまう。


馬場が亡くなった後、全日本プロレスの社長に三沢光晴が就任。三沢は馬場時代に出来なかった選手の保険加入や選手の負担を減らすために興行数の減少など、社内改革を行おうとしたが、馬場の夫人と対立し、社長を解任される。
その後、三沢が大量の選手たちを引き連れて2000年にNOAを旗揚げするなど、全日本プロレスは混迷を極めたのだった。


そして現在、ジャイアント馬場の後継者といわれたジャンボ鶴田、そして三沢光晴までもがこの世を去り、馬場イズムを体現できるプロレスラーは数が少なくなった。
しかし、ジャイアント馬場が残した「シュートを超えたものがプロレスである」というイズムはプロレス界に深く刻まれている。

一時は総合格闘技が人気となり、プロレスは終わったと囁かれたが、若手レスラーの台頭もあり、プロレスは人気を取り戻している。
きっと馬場も天国から喜んでいるに違いない。
(篁五郎)