横山ノック……。90年代に少年期を過ごした人にとって、彼といえば「強制わいせつ事件を起こした大阪府知事」のイメージが強いはず。
「いつまで 大阪府の知事をいじめたら 君ら君! 気が済むんだぁー!」とカメラの前でブチキレたかと思えば、裁判では一転、起訴内容を全面的に認めたその変わり身の早さは、もはやギャグの領域でした。

そんな晩節を汚したノックのイメージ回復に少なからず貢献したのが、47年間苦楽を共にした盟友・上岡龍太郎です。
2007年6月7日に開催された「横山ノックを天国へ送る会」にて、彼が披露した献杯の挨拶は、芸能界引退から当時で既に7年経過していたにもかかわらず、なおも錆びつかない話芸で人間・横山ノックの魅力を情緒豊かに伝えていました。

ノックに育てられた上岡龍太郎


ノックさん あなたは僕の太陽でした。

こんな一言から、上岡の口上は始まります。

2人が出会ったのは、1960年。
お笑いコンビ「横山ノック・アウト」を解散したばかりのノックは、ジャズバンドの司会などで活躍していた上岡(当時18歳)の才能を見抜き、笑いの道へ誘います。
彼らは、上岡のロカビリーバンド時代の仲間を加えた3人組の漫才ユニット『漫画トリオ』を結成。
司会者として既にしゃべりに長けていた上岡でしたが、本格的な漫才をするのはこれがはじめて。それゆえ、10歳年長で芸歴も遙か上のノックに、優しくも厳しく指導されたそうです。

あなたの熱と光のおかげで、僕は育ちました。あなたの温かさと明るさに包まれて、生きてきました。

献杯の挨拶の中でも、ノックに育てられたことをロマンチックに語っています。


タレントとして不遇な時代もノックに助けられた


1968年、ノックの参議院議員選挙出馬に伴い、漫画トリオは活動停止。これを機にピンのタレントとして再出発した上岡でしたが、数年間は鳴かず飛ばずの時期が続きます。この不遇の時を救ったのは、やはり、ノックでした。

『ノックは無用!』『ラブアタック!』といった関西ローカルの番組に上岡を誘い、彼が得意とする司会のポジションに据えたのです。ここでの活躍もあって、上岡は、80年代~90年代にかけて売れっ子司会者へと躍進。もちろん、売れてようが売れてなかろうが、以下のようにノックとの友情は終生に渡って絶え間なく続いたようです。

あなたと初めて会った昭和35年・1960年8月5日から、最後となった平成18年・2006年4月4日までの想い出の数々が、まるで宝石のようにキラキラと胸一杯に詰まっています。


絶妙な話芸で語られる“横山ノック像”


また古くからの付き合いゆえ、上岡は、ノックの変節をすぐ傍らで見続けてきました。芸名、車、住まい……。ノックはさまざまなものを頻繁に変えてきたそうです。さらに、肩書の変転についても言及。

漫才師から参議院議員、大阪府知事から、最後は被告人にまでなったノックさん。

と、しっかりオトし、会場は笑いに包まれます。しかし、その直後。
意外と硬派(?)なノックの一面を知らされることに。

相方や車や住まいや肩書はコロコロと変えたけど、奥さんだけは生涯変えなかったノックさん。

このように、聴衆が弛緩したところへ、グッと引き締まる一言をもってくるセンスはさすがです。

原稿なしでしゃべり続けた4分間


なお、この献杯の挨拶において、上岡は原稿を持っていません。約4分間のスピーチをほとんど噛むこともなく、立て板に水のようにしゃべり続けるのです。
一流の話術と故人への募る想いがなければできない芸当といえるでしょう。
特に、終盤の展開は圧巻。

人を笑わせるのに自分は泣き虫で、
賑やかなことが好きな寂しがり屋で、
ありがた迷惑なほど世話焼きで、
ああ見えて意外に人見知りで、
甘えん坊で、頑固で、意地っ張りで、負けず嫌いで、天真爛漫で、子供っぽくて、かわいくて…


間をおかず、一気にノックの人となりについて列挙。そして最後、じっくりと溜めてこう言います。

そして…いつでも…どんな時でも…必ず…僕の…味方をしてくれたノックさん…。


冒頭から淡々としゃべり続けていたのにここで突如涙ぐむ上岡に、やられてしまったギャラリーは多かったはず。と同時に、わずか4分の間で聴衆の心を鷲掴みにする上岡にここまで言わせる横山ノックという人物の魅力を悟った人も多かったに違いありません。

(こじへい)

※文中の画像はamazonより上岡龍太郎 話芸一代