いまやお笑い芸人のブレイクへのプロセスといえば、吉本NSC(吉本総合芸能学院)などの養成所に入門し、劇場での修行を経て、ライブやテレビなどへの出演……という方法が主流となった感もあるが、以前は師匠と弟子のような完全な徒弟制度によって成り立っていた。

そんな吉本NSCを創立したことでも知られ、大阪のお笑い代表格であった吉本興業が、初めて関東に劇場をオープンしたのが1994年のこと。
それは、大阪のお笑いが東京に進出するきっかけとなった拠点「銀座七丁目劇場」だった。

極楽とんぼ、ロンブー、ココリコなどがしのぎを削って出演


「本当は東京、好きなんですわ」をキャッチコピーに開館した銀座七丁目劇場には、開館当時はそれまで大阪で大人気を博していた、ナインティナインや雨上がり決死隊などが所属した吉本印天然素材や心斎橋筋2丁目劇場の芸人たちが出演していた。
やがて、東京で力をつけてきていた極楽とんぼ、ロンドンブーツ1号2号、ペナルティ、ココリコなど、いまではTVでも人気の芸人たちが、大阪勢と入れ替わるように徐々に活躍していった。

劇場では看板芸人の発掘、育成を目的にした「お笑い虎の穴TOKYO」というシステムがあり、様々な芸人をピラミッド構造のランクで分けて、毎週オーディション形式で出演を決めていた。

ナインティナインによる公開生放送も?!


ちょうどその時期に、吉本印天然素材から単独活動をはじめ、飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を博していたナインティナインが東京進出してきたが、それにあわせ銀座七丁目劇場では彼らをMCにした公開生放送番組「銀BURA天国」(テレビ東京) が毎日放送されていた。
日替わりゲストや、週代わり歌ゲストなど、後の「ASAYAN」にもつながる内容のバラエティ番組だったが、あっけなく一年ももたずして終了してしまう。

その番組は、後にEvery Litle Thing のボーカルとなる持田かおり(持田香織)や、ソロとして目覚ましく活躍するようになる安室奈美恵with SUPER MONKEY’S、海外ゲストとしてはレオナルド・ディカプリオなども出演するという豪華ぶりだった。


銀座七丁目劇場はお笑い芸人の文化を変えた


銀座七丁目劇場のオープン翌年、1995年には渋谷公園通り劇場がオープンする。ここでも今田耕司MCによる公開生放送「渋谷系うらりんご」などがおこなわれていたが、半年程で終了してしまう。

その後1998年に渋谷公園通り劇場が閉館、1999年には銀座七丁目劇場も閉館となり、ここで育った極楽とんぼ、ロンドンブーツ1号2号や品川庄司などの東京の芸人たちはホームグラウンドをなくしたような惜しさを味わったようだ。

しかし2001年に新宿にできた「ルミネ theよしもと」などによって、いまでは関東・関西の隔たりなく、さまざまなお笑いライブが気軽に見られるようになっている。この時期の数年間に銀座のド真ん中に存在した劇場が残した功績は、思いのほか大きいのかもしれない。
(空町餡子)