ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編記事に続き、映画『FAKE』について語り合います。
ネタバレあり。

「マスコミがひどい」と「佐村河内はひどい」は別々の問題


佐村河内ドキュメンタリー映画「FAKE」連日満員が意味すること
『FAKE』公式サイトからキャプチャ

藤田 飯田さんの記事によると、杖を持っていたり、地面を這いずり回っているようなかつてのNHKなどでのことがなくなっているとのことですよね。しかし、ぼくはこうも考えるわけですよ。NHKのディレクターの演出に、過剰に乗って演技した可能性もあるんだろうな、と。

飯田 違います。NHKスペシャルは震災のあとに放映されていますが、そこで描かれる症状の多くは2007年に刊行された自伝にすでに書いてあります。「ディレクターに乗せられた」可能性はありません。
逆です。「佐村河内に乗せられた」んです。無数の演技や設定づくりは、佐村河内の意志で行われています。

藤田 多分、佐村河内さんとメディアが共犯関係で虚像を作ってきた、そしてそれが世に受けたということを、森さんは撮りたいのだろうし、それが暴露後も続いていると言いたいのだと思うのですよ。ぼくは、飯田さんが言うほど、森さんは乗せられていないと思った。共犯関係的な磁場がどのように形成されていくのかそれ自体を撮ろうとしているというか……。
もちろん、その磁場に入れば、自分も無事では済みませんよ(笑)

飯田 乗せられていなくても「結果的にNHKスペシャルのディレクター古賀淳也さんと同じことをやってる(同じことになってる)でしょ?」というのが僕の言いたいことで、乗っているかどうかという内面は問題にしていません。
「マスコミはひどい」という話と「佐村河内はひどい」という話は別々の論点です。森さんが前者の問題提起をしたいのはわかります。でもマスコミがひどいからといって後者を不問にすることはできない。マスコミ批判のために佐村河内の主張や振る舞いを鵜呑みにするわけにはいきません。森さんはそのふたつを曖昧に混同している。

 ただ、佐村河内も弟を交通事故で亡くしているし、奥さんと二人で長らく極貧生活をしていて「売れない芸術家」に対する世間の冷たさも経験していた。それは事実です。そういう経験から、被災者や障害者に対して寄り添いたい気持ちも本当にあったでしょう。でも、だとしたらウソついて作曲家ヅラして近づかなければよかったのに、って思う。

藤田 弱者性や有徴を利用するテクニックは、人心操作でよく行われることですが(同情心や罪悪感をかきたてて、利用する)それをやっている人に近いようには見えるし、それが批難される理由もわかるんです。「そんなくだらない物語=FAKEで感動させられるぼくらの脳みそもチッポケだな」って、ぼくは半分自虐も込めて思うわけですが。


飯田 ふつう、ひとは「このひとは自分を騙そうとしている」「ウソつきだ」なんて前提からは入らず、善意で接しますから「ウソに騙される方が悪い」「ウソで感動するほうもどうかと思う」という言い方にはまったく賛同できません。
 僕だって雑誌かなんかから「インタビューしてきて」って言われて騒動の前に佐村河内に会っていたら、たぶん疑わなかった、見抜けなかったと思う。あるいは「ちょっとおかしいな」と思っても、取材自体、記事自体をぶち壊しにするメリットもないから、スルーしていたと思う。『FAKE』でも時折「気のいいオッサン」の顔を見せるじゃないですか。深刻なだけじゃなくて、人を楽しませる会話ができる。騒動の前はああいう気さくさがもっとあったんだろうなと考えると、いきなり「ウソついてますよね?」なんてますます突っ込めないですよ。
佐村河内はそういうことを見越してウソをついたり、他人を利用しているからタチが悪いんです。

藤田 でも社会にはそういう振る舞いをする人たちがいっぱいいますからね。善意だから良い、同情して騙されたから無垢な被害者だ、というわけでもないのだと思うのですよ。そのような素朴な倫理観では通用しない社会になっちゃったと言うべきかな。同情や罪悪感を捏造で喚起して他人を操作するエージェントが「この世界にはいる」ということを前提として、知識としてもっと広範に広がって、対処法とか周知されるといいなと思います。これは一般論としてですが。


『A』『A2』には客が入らず、『FAKE』は連日満員ということが意味するもの


藤田 森さんについてですが、実は不満もあるんです。
21世紀を生き延びるためのドキュメンタリー映画カタログ』に寄稿した文章にも書いたのですが、彼は、マスメディアが嘘であると暴く。そこまでは良い。ネット右翼と心性が重なっている気がしないでもないが、それは良い。『ドキュメンタリーは嘘をつく』で、自身の作品も含めて、ドキュメンタリーも透明な現実を映していない、と言った。そこも良い。そうすると、しかし、何が本当かさっぱりわからなくなる。本当がなければ、全て嘘でもいいことになる。その問題の先をどうするかの答えは、本作にはなかった。

飯田 森さんは「ひとによって見えている真実は違う」ということを前提に生きるしかない、「見え方が全然違う」ということを理解していたらとひとはもっと寛容になれるはずだ、と思っているわけで、「何が本当か」問題を検証したいひとではないですよね。「ジャーナリストじゃない」って何回も言ってるし。

藤田 しかし、ちょっと話をずらしますが、そういう人間を、ぼくらの社会は、それなりの地位がある人たちでも「見抜けない」ということが一挙に問題化されてきましたね。佐村河内さん、小保方さんらは――真偽はぼくはまだ保留にしているのだけれど――そういう文脈で社会問題化された。これはどういうことなのでしょうか。そういう人が増えたのか。見抜く能力が上がったのか。問題化する社会的機運が高まっているのか。……連想するのは、やっぱり東日本大震災以降の、原発報道その他のことですよね。何が本当なのか、本当だったのか、騙されていたのか、それが揺さぶられていて、自信がなくなっているから騙されやすくなっているのかもしれないし、同時に騙す人に対する怒りや攻撃性も高まっているのかもしれない。そう考えると、本作は『311』に続く、間接的な震災後映画なのかもしれません。

飯田 「見抜けるかどうか」「何が真実なのか。誰を信じるのか」ということよりもマスコミによるメディアスクラムとかネットでの炎上(集中攻撃)に対する批判をしたい映画では? と思いましたが、しかし、客の満員ぶりがその主題を裏切っていると思う。
『A』『A2』は「壊滅的に人が入らなかった」と森さんはよく言っています。今回は連日満員です。「オウムはみんな極悪な殺人集団だ!」というステレオタイプを否定したら人が全然入らなくて、佐村河内だと観に行くというのは、いったいどういうことなのか。明らかにオウムのほうが大きな社会的事件なのに。
 これはつまり、どちらにしても観る側に「叩きたい」気持ちがあって、それを期待しているから、そのハシゴを外される『A』『A2』は観に行かず、『FAKE』は観に行くということでしょう。

藤田 『FAKE』観たあとに、叩きたい気持ち、満足します? ……感動して、「作曲できるじゃないか!」「マスメディアがマスゴミだった!」「いい人だった!」ってなる人もいるんですよね?

飯田 客が入るかどうかということは「観に行くかどうか」の意思決定の話であって、観た「後」の評価の話ではない。

藤田 『A』のときは「叩きたい!」って動機で人が入らなかった?

飯田 森さんはそういうことを言っている。「オウムは善良なひとばっかりだ」なんて映画は観たくないと思ったから入らなかった、最初の5分だけでも観てもらえれば絶対おもしろいんだけど、そこまでたどりついてもらえなかった、って。

藤田 そうすると、飯田説だと「佐村河内はいい人そうだ」という宣伝をしていないから、本作は成功していると言えるのかな。公開してだいぶ立つユーロスペースで、土曜日の午後に行ったら、二つのスクリーンで上映しているのに満席でした。

飯田 だって予告編で「なんで作り話を?」とかって取材されてるカットが入っていたら、むくむくと湧くものがあるでしょう。反省して悩んでいるふうの表情もある。それはそれで「ああ、ちゃんと世間の批判を受け止めたのか」って溜飲が下がるからね。
 実態は全然そうじゃなくて「こうやって人を騙してきたのか!」ってびっくりする作品だったけども。別に僕は佐村河内や森達也を積極的に叩きたい気持ちはありません。でも、観たら「あれっ???」って思って笑っちゃうところがあちこちにあった。

意外にも「食映画」でもある


藤田 ちなみに、ぼくが観た回で、映写が止まって、音だけになって、視覚を失って音に集中させる演出か!?って思ってたら、しばらくして明かりが点いて「映写機の故障です」ってアナウンスがあって、爆笑してザワザワしていた。この「故障」もフェイクの演出じゃないかと疑ってみんな喋ってた。面白い経験しましたよw

飯田 いろいろ言いましたが、まじめなだけじゃなくてふつうにおもしろおかしい場面もいっぱいあります。好奇心で観に行っても全然いいと思います。
「食映画」でもあってですね、『FAKE』を観た妻が豆乳を買ってきてハンバーグをつくったというわが家の深イイ話があります。

藤田 どうでもイイ話ですねw それはともかく、この映画は、自分で観て解釈しなくちゃ仕方がないので、この対談や飯田さんの記事も、参考としてご覧いただければな、と思います。