ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。映画『ヒメアノ~ル』について語り合います。


塚本晋也の遺伝子が炸裂!


映画版「ヒメアノ~ル」原作と違うラストに納得いかない
『ヒメアノ~ル』公式サイトからキャプチャ

藤田 映画『ヒメアノ~ル』は、古谷実さんが原作。監督は吉田恵輔さん、主演は森田剛さん。……あまり期待していなかったんですが、ぼくは良い作品かと思いました。何故良いと感じているのか自分でも考えているのですが…… 古谷実原作の作品では園子温監督の『ヒミズ』よりよい映画化ではないでしょうか。

飯田 あらすじを言うと、冴えない清掃バイトの青年・岡田が、同僚(男の先輩)が好きなカフェ店員からまさかの告白をされてくっつくと。だけど、その女の子を狙っている危なっかしいやつがいる。それは主人公にとってはえらい久々に会った高校の同級生・森田だった(森田剛が「森田くん」役を演じているというややこしさ)。
森田くんは当時はいじめられっ子だったけど、ある時期からむっちゃ怖いやつ……どころか良心のかけらもなく虚言を吐きまくるシリアルキラーになっていて、はたして主人公は彼女を守れるのか? という話。
 古谷実による原作の設定をちょいちょい使いつつ、中盤以降はだいぶ違う。原作が大好きなひとからすると……でしょうね。
 さすが塚本晋也のところに10年以上いた(※照明マンとして)だけあるバイオレンス映画だなあと僕は思いましたが、塚本ファンである藤田くん的にはどうですか、影響感じます?

藤田 めっちゃ感じましたね。撮影も塚本組の志田さんですよね。塚本晋也の影響感じますよ。
暴力のエグさや、身体欠損の描写に特にそれを感じましたね。ああ、『野火』だなぁとか。
 刺し殺すときが、本当に血なまぐさいし、頭を殴られた死体が痙攣するとか、車で死体を平然と轢くとか、あの残虐さ・冷酷さはとてもよかったですね。『仁義なき戦い』の子孫ですね。

飯田 監督は自主映画時代の最初期は塚本作品に影響されまくった暗くてヤバい作品をつくっていたけどあまりにも評価されなかったらしく、女の子をかわいく撮る路線に突っ切っていった。だけど実力をつけて戻ってきたらマジこわかった、という感じですかね。

 というか、その二つの路線の融合ですよね。『さんかく』っていうストーカー映画を撮ったり、『純喫茶磯辺』ではヤリマンとそうと知らずに惚れちゃう男を出していたり、過去作との連続性ももちろんある。吉田監督はダメで冴えない男ががんばる(ときどきがんばる方向がおかしい)話ばかりだし。
『キネマ旬報』などでも早い時期からずっと注目されていた作家ですが、それも納得の出来でした。

V6森田剛さんの演技力が凄すぎる!


藤田 V6の森田剛さんが演じているシリアルキラーが、めっちゃよかったですね。頬のコケかたとか、いいですね。俳優にドラマ的に演技をさせず、ほんとうにつんのめるように演技させているのも、塚本映画的だった感じがします。
塚本映画だと監督が自分で演技しちゃうんですが……。
 ぼくは、ああいう孤独な犯罪少年、結構萌えますね、なんででしょうね。

飯田 森田くんのあの感情が壊れている感じは本当すごいよね。
 レイトショーで観たんだけど、観る前にすごい眠くてコーヒーを呑みまくってたらカラダがぶるぶる震えてですね、ひとをぶっ殺しまくっている森田くんがこわくて震えているのか、カフェインの過剰摂取で震えているのかわかんなかった。でも震えているのでこわく感じました。

藤田 もう一人の主人公の岡田くんは、退屈な日常を送っているが、僥倖のようにかわいい彼女をゲットするわけですよね(古谷作品の魅力として、童貞くさい女性への思いと、突然、事故のように女性が接近してくるショックというのがあります)。
裏面で、森田くんは、殺人を犯していく。性行為と暴力が、交互に映されることで、並行性を想起させるようになっている。……恋愛も、犯罪も、つまらない日常からの脱出口として、予期していない状態で降りかかってくるものとして、裏表なわけですね。
 この作品が面白かった理由として、古谷原作の物語展開のロジックの先の読めなさってあると思うんですよ。女性が「思っていたのと違う形で接近する」のと似ていて、観客や読者が予期するものと必ずズレた展開をしていくんですよ。それは、『稲中』とかのギャグの技法ときわめて近くて。
フリがあって、オチで笑わせるんだけど、そのオチは、聞く人が予期していたものとズレていなくてはいけないですよね。そういう原理で作品全体ができている。『稲中』以降、古谷さんが、ギャグじゃなくて、シリアスで暗い、底辺の話ばかり描くようになったと言われているけど、ぼくはそうは思っていないんですよ。連続性がちゃんとある。
 そういう原理で物語が転がるから、先が予測ができなくて面白い。作品のジャンルすら、今回、途中までわからなかった。タイトルが出てくるのが中盤で、そこがすごいカッコよかった。

犯罪者の動機と結末に納得がいかない


飯田 終盤に判明する森田くんの過去に納得がいかなかったんですが、どうですか?
主人公との因縁はわかったけど、どうもそれが直接的に主人公を狙う理由になっているわけではないし、ああいう背景があることと主人公の彼女を狙う理由に関連性がない。誰でもよかっただけかもしれないけど。

藤田 ぼくも、そこが微妙でしたね。そこが原作とは大きく違うところですよね。

飯田 森田くんに関しては「なんでこいつこうなっちゃったの?」っていうところを変に切ない感じにするより、「わかりそうでわからない」まま宙ぶらりんにしてもらったほうが、よりおそろしかったかな……と。

藤田 あの孤独な犯罪を犯す青年の過去に、安易ないじめなどを使った類型の部分、そして、元の心を取り戻すというところ、なんとなく救いがありげなエンディングの音楽は、ぼくは蛇足だと感じましたね。
 塚本監督の『KOTOKO』のラストで、救いがないようで救いがある、みたいな一瞬があるんですけど、あれを思い出しましたね。救いがない中での微かな救いなんだけど、ちょっと説明的すぎたんじゃないかな。あの白い犬も、ラストに出すのではなくて、もっと手前で出して、観客の一部が勘付くぐらいでよくて、最後に説明的なカットは入れなくてもよかった。

飯田 ジャニーズに出ていただくにあたって、連続殺人鬼になった「言い訳」になるような設定なしだと難しかったのかもしれないし、多少は救いのある終わりにするのがメジャー映画としてギリギリのラインだったんだろうとは思うものの……。

藤田 予期の話に戻れば、恋が成就する人も、ストーカーになる人も、チェーンソーの使い道も、こっちが予期していたものと必ずズレるんですよね。だから、最後もズレなければ、ダメなんじゃないかとぼくは感じましたよ。あそこで「ズレ」が閉じてしまうと、映画全体を裏切った感じになってしまう。
 主人公が重く考えている過去に自分が加担した行為を相手は覚えてもいない、ってままでよかった。

飯田 ラブコメパートのコントみたいなノリと、渇いた暴力の対比がふしぎなんだけど、どっちも「今っぽいな」と思って観ていたら、最後だけ妙にウェットで説明的だから「あれっ?」って。マルキ・ド・サドの小説が反社会的な放埒のかぎりを尽くしたあげく、最後にとってつけたように悪党が死ぬシーンで終わらせることによって「勧善懲悪の話です」って言い張っていたのに似てるなって思った。
 吉田監督の『ばしゃ馬さんとビッグマウス』だと相当に苦い終わり方(だと僕は思う)をするんだけど、あの妥協のなさからしたら今回は後退に見えなくもない。でも、基本はおもしろかったですよ。

藤田 古谷実が、ある時期から、底辺の鬱屈を書き、「恋愛の成就」と「青年の鬱屈と犯罪」を表裏のように書くようになったのは謎なんですが…… 幸福と、不幸。その対比なのでしょうか。あるいは、幸福になることそのものへの罪悪感、恐怖感の象徴なのでしょうか。あの分離した二つのリアリティの世界が並走するのは、なんとも不思議でしたね。
 だから、そのような二人のつながりの象徴的な連関をきちんと閉じるかズラすかしてほしかった。物語の表層的な意味としては閉じるんだけど、象徴的な部分がむしろ放り投げられている感じがして不満が残ります。

飯田 原作だと主人公と森田くんが直接対決しないままで終わるから、それはさすがにメジャーの劇映画ではできないと思うんですよ。でも暴力の理由は「仮説はいっぱいあるけど謎のまま」でもよかったのかなと。

藤田 その不満はともかく、尋常じゃない力量の監督ですね。筋だって、平凡な作品ではないから、追いやすいわけではない。ユーモアと陰惨さのギャップも描いているし、イチャイチャする恋人もリアリティあるし。途中から筋がスライドしていくようなものですからね。でも、森田くんの犯罪が延々続くだけで十分凄い。むしろ、それを観ていたい。……そんな気にさせられるなんて、滅多にないことですよ。
 あと、舞台になっている場所の絶妙に寂れた感じとか、カーブを描きながら微妙に上ったり降りたりする坂道の多用とか、ロケーションの選択の妙も良いポイントですね。特に、カーブのある坂は、象徴的で効果的だったと思います。