別れ、そして出会いの季節。
卒業式や入学式が各地で行われる時期だが、式の厳かな雰囲気のなか、児童・生徒が「また長い挨拶が……」とゲンナリしたり、アクビしたりするのは、今も昔も変わらない。


それにしても、卒業式や入学式の挨拶は、なぜつまらないのか。もちろん「厳かな式典で話を面白くする必要はない」「本来、面白くしてはいけない話や場面もある」という面はあろう。でも、「面白い話=笑える話、ふざけた話」ではない。誰かの心に何かしら響くものであっても不謹慎ではないと思う。

そこで、「つまらない」理由を考察してみたい。

■1・抽象的かつ使い回しの挨拶が多い
来賓代表挨拶を行うのは、たいてい教育委員会や市議会・区議会などのエライ人。
子どもと直接触れ合う機会のない人たちのため、その学校ならでは、学年ならではの具体的エピソードはなく、抽象的かつ「使い回し」の話が多くなる。子どもにとっては、自分の体験や生活とリンクする部分がないため、なんら響かない。

■2・主役に対してよりも先に「大人への挨拶」がくる
「お忙しいところご臨席賜りました〇〇様、△△様」などと、冒頭で各所への挨拶を延々とするが、子どもにとっては直接接点がない人たちなので、名前も知らなければ顔も知らず、「誰?」状態。ときには、そんな挨拶をしている「身内」側の校長ですら、子どもたち一人ひとりの名前を把握していなかったり、子どもたちと日頃、全然話をしていなかったりして、子どもにとって身近な存在じゃないこともある。

■3・贈るエピソードがどれも似通っている
子どもたちに贈る言葉として、スポーツ選手や学者、有名企業の社長などのエピソードを紹介するのが定番となっているが、昔の偉人ではなく、近年話題の「旬の人」のエピソードを紹介するケースが多いため、卒業式と入学式などで、別の人の口から語られるエピソードがかぶってしまうことがある。別の人から語られるエピソードだとしても、聞いている側にとっては「それ、前も聞いた」状態になる不運がある。


■4・エピソード紹介が時系列で長い
誰にでもわかるように話すことが大切だとはいえ、エピソードを紹介する来賓・校長先生などのお話は、あまりに「時系列」一辺倒にまとめられすぎる。作文も同じだが、時系列の文章はたいていつまらない。伝えたいキーワードは1つなのに、そこに至るまで、人となりを幼少期から延々と時系列に語るので、猛烈に長い印象を与えてしまう。
だからこそ、子どもが知っている人物を紹介するのであれば、人となりは極力コンパクトにまとめ、エピソードをできるだけ具体的に掘り下げて魅力的に語ることが必要ではないか。また、エピソードに入る前に「〇〇として知られる人ですが、実は~~~でした」などと、意外性あるキャッチーな前フリをして、引きつけておくのも効果的だと思う。

ところで、子どもにとって接点のない議員や地域の方などへの挨拶は、実際、不可欠だということは大人になるとよくわかる。
公立学校は、設備も人材も、実は意外と平等じゃなく、地域に愛されることや外へのアピールが重要な意味を持っているからだ。だからこそ、「関係ない知らないおじさんたちが式のときだけ来て、長く挨拶する」ことにも、意味はある。
ただし、子どもにはいつの時代も「短い挨拶」が歓迎されることは変わらないのだ。
(田幸和歌子)