2009年11月13日 10時10分
松井秀喜、強い気持ちが呼んだ必然のMVP
「不要論」も出た松井秀喜だが、結果で見事その声を払拭することになった
|
■松井秀喜、苦節7年の末、ワールドシリーズMVPに
ヤンキースの松井秀喜外野手(35)がやってくれた。ワールドシリーズという夢舞台で、日本人としては初めてMVP(最優秀選手)に輝いたのだ。シリーズ 6試合で3本塁打を含む13打数8安打(打率.615)、8打点という文句なしの活躍。とくに世界一を決めた第6戦では、先制2ランを含む3安打、 1960年のボビー・リチャードソン(ヤンキース)が持つシリーズ記録に並ぶ史上2人目の1試合6打点の大暴れ。松井秀が名門を9年ぶり27度目の世界王者に導いたと言っても過言ではない。
「今はもう最高。それだけです。信じられない。感無量です。この日のために1年間頑張ってきたわけですから。何年もここにいたが、初めてここまで来られて最高。家族に一番感謝している」
「最高」という言葉にこれ以上ない実感がこもる。ヤンキースに入団した2003年、いきなりワールドシリーズ出場を果たしたが、マーリンズに世界一は阻まれた。その後、毎年のように有力候補に挙げられながら、夢舞台には上がれなかった。その間、井口(ホワイトソックス、フィリーズ)、田口(カージナルス、フィリーズ)、松坂と岡島(レッドソックス)に先を越された。悔しさは言葉にできない。それだけに「最高」は文字通り「最高」なのだ。
■ジラルディ監督の英断もMVPの一因
ワールドシリーズMVPを「自分でもビックリだし、夢みたい」と松井秀は振り返る。全6試合でフル出場は半分の3試合のみ。あとの3試合は代打での3打席だけ。しかし、その3打席で本塁打とタイムリーを放つ3打数2安打1打点だ。第6戦の6打点と同じくらいにこの代打での3打席が評価されてのMVPだが、これはジラルディ監督のファインプレーともいえるだろう。
右ひざに続いて左ひざも手術して迎えた2009年シーズン、序盤はひざの痛みもあり、思うような働きはできなかったが、気温の上昇とともに打撃は向上し、結局、打率.274、28本塁打、90打点の好成績を残した。このシーズンの中でジラルディ監督は1度も松井秀を守備に就かせなかった。ひざに問題がなくなり、激走しても大丈夫になったにも関わらず、出場はDHか代打で「左翼」は1 試合も守らせなかった。
この英断が、松井秀の打席での集中力をさらに高めた。完璧に「打つ」ことのみに集中できたのである。それがワールドシリーズでの代打の3打席にもつながったのである。
■少し遠回りをしたが、夢を実現
松井秀の勇姿を見るにつけ、2つの思いが甦る。1つは、「願いは叶う」ということ。巨人で日本一になった翌日の2002年11月1日、「何を言っても裏切り者になる」とだけ言ってメジャー挑戦を表明し、海を渡った。その不退転の決意からヤンキースのユニホームを着たのは、間違いなくワールドシリーズ出場に最も近いチームと思ったから。
「ワールドシリーズに出たい」「世界一になりたい」という願いがあればこそ、巨人ファンから裏切り者扱いされようが、「命を賭ける」とまで言い切ってヤンキース入りしたのだ。少し遠回りをした感はあるが、願い続けた先に夢の実現が待っていた。
■強い気持ちが呼び込んだプラスの流れ
もう1つは「強い気持ちを持つ大切さ」だ。06年5月11日のレッドソックス戦、1回の守備で左手首を骨折した。連続試合出場記録が日米通算1768試合で途切れた瞬間だった。56試合連続安打というアンタッチャブルな大記録を持つヤンキースのジョー・ディマジオが「ディマジオを見るのが最初で最後の人が必ずいる。その人のためにプレーしているんだ」との言葉に感動した巨人・長島茂雄監督(当時)が、入団まもない松井秀に同じ言葉を贈った。この時点から連続試合出場に誇りを持ち、最大目標にしていただけに、左手首骨折による戦線離脱のショックは計り知れなかった。
そして、07年に右ひざ手術、08年は左ひざ手術と3年連続でアクシデントに襲われた。完璧なる逆境。頭の中がマイナス思考で充満しても不思議ではなかった。ところが、松井秀は人間ができている。
「ケガは悪いことばかりではないんです。“このままでは終われない”“もっと凄い選手になって戻ってみせる”という強い気持ちがエネルギーとなるんですよ」
逆境をバネにして、プラス思考に転じてしまう。強い気持ちを持つことで、さらなる精神的なたくましさを身につけてしまうのだ。
願いは叶った。強い気持ちからぶれない心を手に入れた松井秀。来季の契約問題はまだ未定だが、ヤンキースに残留しようが、他チームのユニホームを着ようが、スケールアップしたゴジラが見られることは間違いない。
【野球・メジャーリーグガイド:瀬戸口仁】
ヤンキースの松井秀喜外野手(35)がやってくれた。ワールドシリーズという夢舞台で、日本人としては初めてMVP(最優秀選手)に輝いたのだ。シリーズ 6試合で3本塁打を含む13打数8安打(打率.615)、8打点という文句なしの活躍。とくに世界一を決めた第6戦では、先制2ランを含む3安打、 1960年のボビー・リチャードソン(ヤンキース)が持つシリーズ記録に並ぶ史上2人目の1試合6打点の大暴れ。松井秀が名門を9年ぶり27度目の世界王者に導いたと言っても過言ではない。
「今はもう最高。それだけです。信じられない。感無量です。この日のために1年間頑張ってきたわけですから。何年もここにいたが、初めてここまで来られて最高。家族に一番感謝している」
「最高」という言葉にこれ以上ない実感がこもる。ヤンキースに入団した2003年、いきなりワールドシリーズ出場を果たしたが、マーリンズに世界一は阻まれた。その後、毎年のように有力候補に挙げられながら、夢舞台には上がれなかった。その間、井口(ホワイトソックス、フィリーズ)、田口(カージナルス、フィリーズ)、松坂と岡島(レッドソックス)に先を越された。悔しさは言葉にできない。それだけに「最高」は文字通り「最高」なのだ。
■ジラルディ監督の英断もMVPの一因
ワールドシリーズMVPを「自分でもビックリだし、夢みたい」と松井秀は振り返る。全6試合でフル出場は半分の3試合のみ。あとの3試合は代打での3打席だけ。しかし、その3打席で本塁打とタイムリーを放つ3打数2安打1打点だ。第6戦の6打点と同じくらいにこの代打での3打席が評価されてのMVPだが、これはジラルディ監督のファインプレーともいえるだろう。
右ひざに続いて左ひざも手術して迎えた2009年シーズン、序盤はひざの痛みもあり、思うような働きはできなかったが、気温の上昇とともに打撃は向上し、結局、打率.274、28本塁打、90打点の好成績を残した。このシーズンの中でジラルディ監督は1度も松井秀を守備に就かせなかった。ひざに問題がなくなり、激走しても大丈夫になったにも関わらず、出場はDHか代打で「左翼」は1 試合も守らせなかった。
この英断が、松井秀の打席での集中力をさらに高めた。完璧に「打つ」ことのみに集中できたのである。それがワールドシリーズでの代打の3打席にもつながったのである。
■少し遠回りをしたが、夢を実現
松井秀の勇姿を見るにつけ、2つの思いが甦る。1つは、「願いは叶う」ということ。巨人で日本一になった翌日の2002年11月1日、「何を言っても裏切り者になる」とだけ言ってメジャー挑戦を表明し、海を渡った。その不退転の決意からヤンキースのユニホームを着たのは、間違いなくワールドシリーズ出場に最も近いチームと思ったから。
「ワールドシリーズに出たい」「世界一になりたい」という願いがあればこそ、巨人ファンから裏切り者扱いされようが、「命を賭ける」とまで言い切ってヤンキース入りしたのだ。少し遠回りをした感はあるが、願い続けた先に夢の実現が待っていた。
■強い気持ちが呼び込んだプラスの流れ
もう1つは「強い気持ちを持つ大切さ」だ。06年5月11日のレッドソックス戦、1回の守備で左手首を骨折した。連続試合出場記録が日米通算1768試合で途切れた瞬間だった。56試合連続安打というアンタッチャブルな大記録を持つヤンキースのジョー・ディマジオが「ディマジオを見るのが最初で最後の人が必ずいる。その人のためにプレーしているんだ」との言葉に感動した巨人・長島茂雄監督(当時)が、入団まもない松井秀に同じ言葉を贈った。この時点から連続試合出場に誇りを持ち、最大目標にしていただけに、左手首骨折による戦線離脱のショックは計り知れなかった。
そして、07年に右ひざ手術、08年は左ひざ手術と3年連続でアクシデントに襲われた。完璧なる逆境。頭の中がマイナス思考で充満しても不思議ではなかった。ところが、松井秀は人間ができている。
「ケガは悪いことばかりではないんです。“このままでは終われない”“もっと凄い選手になって戻ってみせる”という強い気持ちがエネルギーとなるんですよ」
逆境をバネにして、プラス思考に転じてしまう。強い気持ちを持つことで、さらなる精神的なたくましさを身につけてしまうのだ。
願いは叶った。強い気持ちからぶれない心を手に入れた松井秀。来季の契約問題はまだ未定だが、ヤンキースに残留しようが、他チームのユニホームを着ようが、スケールアップしたゴジラが見られることは間違いない。
【野球・メジャーリーグガイド:瀬戸口仁】
関連記事
| 注: この記事は配信日から2週間以上経過した記事です。記事内容が現在の状況と異なる場合もありますのでご了承ください。 この表示はなんですか? こちらをご覧ください。 |
| 1 票 | 0 件 | 0 つぶ |

