日本列島にゴジラの夏がやってきた。

先月29日に公開された映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督)が週末の観客動員ランキングで1位を記録。
ゴジラシリーズ累計観客動員数も1億人突破したことが発表された。
私も早速TCXの巨大スクリーンで観てきたが、周囲の大人はそのストーリーの緻密さに驚き、子どもたちは見慣れた街を破壊するゴジラの迫力に言葉を失っていた。
いつの時代もゴジラが暴れ回る姿には一種のカタルシスを感じさせる。日常の中に現れた非日常の祭り感。すべてのエンターテインメントの最も重要な部分である。

ゴジラ松井秀喜の甲子園


あの夏、野球界のゴジラもそうだった。1993年の松井秀喜だ。
松井の夏と言えば、92年夏の甲子園を思い出すファンも多いだろう。星稜高は2回戦の明徳義塾高戦で頼みの松井が5打席連続敬遠されチームも敗退。
先日放送されたキリトルTVでは試合終了直後に「(お前は)悪くない」とベンチでチームメイトを励ます18歳の松井の姿が映し出した。今さらだが松井は人格者だ。
そんな誰にもやさしいイイ人が、いざ打席に入るとゴジラに変身して誰よりも凶暴に投手を打ち崩す。まさに球場に現れたヒーローである。


あれから24年経った今も夏の甲子園の季節になると語られる伝説の5打席連続敬遠だが、その1年後の松井秀喜は意外と知られていない。一度もバットを振ることなく甲子園を去った男には、数カ月後のドラフト会議で4球団が競合。
自身がファンだった阪神ではなく、巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄が当たりクジを引き当てた。ドラフト直前まで即戦力投手の指名を考えていた球団スカウトに対して、ミスター自身が松井獲得を熱望。
時代はJリーグ開幕前夜、そして若貴フィーバーで空前の相撲ブーム。イチローはまだ無名の存在で、大袈裟に言えば93年当時の松井には巨人だけでなく、プロ野球界の未来そのものが託されていた。


1993年の松井秀喜


オープン戦打率.094とプロの洗礼を受けた松井は開幕2軍スタート。約1カ月間で打率.375、4本塁打と格の違いを見せつけ満を持して5月1日に1軍昇格。
ライバル野村ヤクルトとの一戦で即7番レフトでスタメン出場すると第2打席でタイムリー二塁打を放ちプロ初安打・初打点を記録。いきなりお立ち台に上がってみせると、翌2日には1軍7打席目でヤクルト高津臣吾から弾丸ライナーのホームランをライトスタンドに突き刺した。
だが、その後は打率.091でホームランも出ず6月20日には2軍落ち。驚くのはあのせっかちな何でも欲しがる長嶋監督が打率0割台の高卒ルーキーを2カ月近く1軍に帯同させていたという事実だ。
それだけミスターは松井の素質に惚れ抜いていたのだろう。
夏の日の1993。お盆休み真っ只中の8月16日に1軍再昇格した松井は8月31日の横浜戦で同年の最多勝ピッチャー野村弘樹から圧巻の2打席連続本塁打。さらに3番に昇格した9月には4本、10月にも4本と最終的に57試合の出場ながらもセ・リーグ高卒新人記録となる11本塁打をかっ飛ばした。

今思えば、92年夏から93年夏の1年間の松井秀喜は凄まじいスピード感だ。甲子園での5打席連続敬遠、ドラフトでは13年ぶりに巨人に戻った長嶋監督が当たりクジを引き当て、王貞治越えの願いを込めて背番号55を託され、春季キャンプではミスターとゴジラの大フィーバー。
夏場以降は期待通りにホームラン連発。
そのすべてをファンと共有することで、松井秀喜は甲子園のヒーローから国民的スーパースターへと登り詰めて行くことになる。プロ野球界に19歳のリアルゴジラがいた夏。なお高卒ルーキーで二桁本塁打を放った選手は、93年の松井秀喜以来、出現していない。
(死亡遊戯)

(参考資料)
週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1993年