日本のメディアの病について

2012年2月15日 14時00分
今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

■日本のメディアの病について
フランスの雑誌『Zoom Japon』から「日本のメディアについて」寄稿を求められた。
フランス人に日本のメディアの劣化の病態とその由来について説明する仕事である。
どんなふうに語ったらよいのか考えた。
とりあえず人間の成熟とメディアの成熟は相同的であるということで説明を試みた。
こんなふうな言葉づかいで日本のメディアについて語る人はあまりいないが、それは“外国人に説明する”という要請を私たちがものを書くときにほとんど配慮することがないからである。
いつもそうである必要はないが、ほんとうに死活的に重要な論件については、自分の書いたことが外国語に訳されて、異国の人々に読まれたときにもリーダブルであるかどうかを自己点検することが必要だと私は思う。
ではどぞ。

2011年3月11日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故は私たちの国の中枢的な社会システムが想像以上に劣化していることを国民の前にあきらかにした。日本のシステムが決して世界一流のものではないことを人々は知らないわけではなかったが、まさかこれほどまでに劣悪なものだとは思っていなかった。そのことに国民は驚き、それから後、長く深い抑鬱状態のうちに落ち込んでいる。
政府の危機管理体制がほとんど機能していなかったこと、原子力工学の専門家たちが“根拠なき楽観主義”に安住して、自然災害のもたらすリスクを過小評価していたことが災害の拡大をもたらした。それと同時に、私たちはメディアがそれに負託された機能を十分に果たしてこなかったし、いまも果たしていないことを知らされた。それが私たちの気鬱のあるいは最大の理由であるかも知れない。
メディアは官邸や東電やいわゆる“原子力ムラ”の過失をきびしくとがめ立てているが、メディア自身の瑕疵(かし)については何も語らないでいる。だから、私たちは政治家や官僚やビジネスマンの機能不全についてはいくらでも語れるのに、メディアについて語ろうとすると言葉に詰まる。というのは、ある社会事象を語るための基礎的な語彙や、価値判断の枠組みそのものを提供するのがメディアだからである。メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準をメディア自身は提供しない。「メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準を提供することができない」という不能が現在のメディアの劣化の本質なのだと私は思う。

注: この記事は配信日から2週間以上経過した記事です。記事内容が現在の状況と異なる場合もありますのでご了承ください。

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