これはすでに現存しない3つのものについて書かれた本である。
1つは近世から日本に存在していた武道の系譜、古式柔術と呼ばれるものだ。
もう1つは、その古式柔術の流れが絶えたことによって失われた技術である。そして最後の1つは、木村政彦という不世出の武道家の肉体、そして彼が体現していた精神だ。
なぜそれがこの世から消え去ったか。答えは簡単である。歴史とは勝者によって綴られるものであり、その意に染まないものは消し去られる運命にあるからだ。正史とはそうした記述の粛清によって成立したものであり、だからこそ非正規の歴史である野史が民衆によって語られていく。

だが積み重ねられた歳月は重く、昭和から平成に時代が移ったころには古式柔術の系譜とその技術、木村政彦の名が人々の話題に上ることも稀になった。しかしあるとき、歴史の悪戯のような事件がきっかけで失われたものたちが界面へと浮上し、再び光輝を放ち始めるようになったのだ。
増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』はそういう書である。スポーツ・ノンフィクションであると同時に歴史のありようについても語った本だ。

木村政彦は戦前の柔道界において「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と賞されたほどの不世出の才を持つ柔道家である。1936年6月に阿部謙四郎に敗れた後は公式戦の個人戦では無敗。
1937年10月拓殖大学予科3年在籍時に現在の全日本選手権にあたる全日本選士権で優勝し、初出場にして初優勝を果たす。しかも学生が普通出場する一般の部ではなく、プロの出場が認められている専門の部での快挙であった。以降は敵なしの三連覇を飾って大学を卒業した。
初優勝のとき木村は牛島辰熊から誉めてもらうどころか叱責を受けた。
「一度くらい勝って喜ぶな。十連覇してからだ」
牛島は木村が祝賀気分で増長するのを怖れたのだろう。
木村はこう言って返した。
「十連覇ではなく二十連覇を狙います」
1941年に戦争のため徴兵されることがなければ、木村は本当にそれくらいの偉業を成し遂げていたかもしれない。戦後の1949年に開かれた第二回全日本選手権でも堂々の優勝を果たしているからだ(ただし不可解な判定により決勝の相手である石川隆彦との同時優勝という奇妙な結果になった)。まさに13年間無敗。
しかも木村の場合、そうした公式戦以外にも数々の伝説を残している。その1つが1951年10月23日にブラジル・マラカニアンスタジアムにおいてエリオ・グレイシーを破った柔道対柔術の他流試合だろう。
当時のブラジルでは日系人社会が敗戦のために混乱の極みに達していた。現地ではすでに日本人柔道家・前田光世の流れを汲むブラジリアン柔術が勃興していたが、それを日本の伝統競技である柔道で圧倒し、民族の誇りを取り戻そうと考えた者があったのだ。講道館が支配する戦後柔道界と訣別し、結核に倒れた妻の医療費を稼ぐために海外へと雄飛していた木村に呼び声がかかった。木村はプロレス・プロ柔道交じりの興行を打ちながら現地を訪れ、やがてエリオ・グレイシーの挑戦を受けてこれを一蹴する。決まり手は戦前から得意にしていた関節技の腕がらみだった。グレイシー一族が来日し格闘技界を席巻した際、平成のマスコミはこれを黒船の来襲に喩えた。
しかしそれ以前に敵地へと堂々と乗り込み、日本武道家の実力を見せ付けた男があったのだ。

すでに木村政彦をめぐる言説が多数流布されている。本書で増田俊也はそうした「伝説」の1つ1つに、一次資料の検証という地道な作業によって光を当て、虚実の別を明らかにしたのである。木村を巡っては正史編纂が可能な立場にある2つの団体がその存在を抹消、あるいは誹謗によって卑小化しようとしてきた。その1つが日本柔道連盟と一体の関係にある講道館、もう1つが力道山の興した日本プロレス協会の流れを汲む団体とその息がかかったプロレス・マスコミである。1993年11月にグレイシー一族の一人であるホイス・グレイシーが第1回UFC大会に優勝し、「マサヒコ・キムラは我々にとって特別な存在である」と発言しなければ、まだまだこの封殺状態は続いたはずだ。

本書で増田は木村伝説の検証と同時に歴史の暗部から2つの事実を発掘している。1つは戦後・講道館によって日本柔道界が統一される以前には、2つの対抗勢力があったという事実である。もう1つは、それらの流派には近代以前の遺物(古式)どころではなく、スポーツとしての柔道を標榜する講道館の柔道からは失われた技術が継承されていたということだ。特に高専柔道についての詳細な記述は素晴らしい。
講道館に対抗する2つの勢力とは、1つが1895(明治28)年に発足した武徳会である。1882(明治15)年に設立された講道館に対抗するために古流柔術の各派が結束したもので、講道館が独占しようとしていた段位の発行(五段まで)の権利を持ち、特に関西以西では講道館を凌ぐ勢力を誇っていた。前述の唯一木村政彦を破った男である阿部謙四郎はこの武徳会に属していた。これが戦後になって消滅した理由は、戦中に東條英樹によって組織が私物化された歴史があり、GHQに守旧勢力として睨まれたためだ。
もう1つは1914年に第1回大会が開かれた高専柔道である。これは戦前の旧制高校(戦後になって東京大学教養学部などの各国立大学に吸収)旧制専門学校(徳島大学や同志社大学などの前身)の学生が選手として競い合っていたもので、講道館柔道とは一線を画すルールが適用されていた。投げからではなく組み合ってすぐに寝技に入る「引き込み」が許されていること、寝技の膠着状態による「待て」がないことなどの特徴がある。また、十五対十五の団体勝ち抜き戦が適用されていたため、弱い選手であっても技術を学べば強い選手を引き分けで止めることが可能だった。このため選手たちは知恵を絞り、大会のたびに新しい技術を考案されるという技術革新が成し遂げられたのだった。木村の師である牛島辰熊は早くからこの高専柔道に着目し、技術を学んだ。それを木村政彦にも教えたのである。後にエリオを破った腕がらみの技は、高専柔道仕込みの技術から生まれたものだ。高専柔道家たちの闘志はすさまじく、敗れるときとはすなわち意識を失い、骨が折れるときだったという。
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の魅力は、この高専柔道を中心とした技術論があることである。牛島・木村の師弟は格闘技術を貪欲に学び続けた。木村は投げ技で大外刈り、極め技で腕がらみという二大武器を身につけたが、それに飽き足らず当時は柔道の下に見られていた空手にも関心を持ち、近代空手の祖である船越義珍の松涛館に通って打撃をマスターしていた。真剣勝負においては組み合っての投げで決することはなく、間合いをつめるための打撃、組み敷いて戦闘能力を奪うための寝技が必ず必要になる。つまり今でいう総合格闘技に近いものを「柔道」として認識していたと増田は指摘するのだ。
対する講道館柔道はGHQの手前もあってスポーツ化を意識しすぎたために始祖・嘉納治五郎が認めていた当て身(打撃)を排除し、一度投げてからではないと寝技には入れないというルールを作って柔道における投げ技の特権を確保しようとした。その結果歪みが生じ、東京オリンピック以降に外国人選手の台頭を許してしまうのである。講道館柔道が世界柔道の中で孤立している状況を、柔道を愛する者として増田は憂う。こうした形で一者支配による歴史の粛清、技術が絶えたための弱体化という現状が描かれているのだ。

さて、ここまであえて触れなかったことがある。表題にも謳われている「対力道山」の側面だ。戦後の木村は、師・牛島辰熊が創設に携わったプロ柔道に参加したことを皮切りにプロ格闘家としての道を歩み、力道山よりもはるかに早くプロレスラーとしてデビューを果たす(その戦跡は「Gスピリッツ VOL.21」に詳しい)。常に格闘界の最前線を走り続けた男がなぜ力道山に負けたのか。それを探究するのが本書のもう1つの役目である。
すでに巷間に知れ渡っていることであるが、プロレスは真剣勝負ではない。あらかじめ勝敗の決まったショーであり、観客に娯楽を供するための芸能である(そして当時は興行を仕切る黒社会の力関係までが勝敗に影響していた)。そのことを当事者の力道山と木村は承知の上で1954年12月22日の試合に臨んだ。しかし待っていたのは娯楽とは程遠い凄惨な流血試合であり、木村は力道山によって一生消えない心の傷を刻まれた。始まったばかりのTV放送により、自分がマットに屈するさまを全国に放映されてしまったのだ。木村の74年の人生においてちょうど中間点にあたる37歳での出来事だ。木村は残りの37年を、悔恨に包まれながら送ったという。華々しい前半生と比べてなんと痛ましく、なんと暗い時間なのだろうか。
柔道経験者である増田は心情の上で明らかに木村贔屓だ。なんとか文章によって木村を救おう、名誉を回復しようという気持ちが行間から滲んで見える。しかしノンフィクションの著者として公平でもあろうとする。その揺れ方に著者・増田俊也の人間が見えている。本書が凡百の格闘技本と一線を画すのは、その揺れがあったからこそだ。著者は心の底から木村政彦に惚れ抜いており、それゆえに真実をもって故人を悼もうともしている。ところどころで魂の叫びというべき記述があり、胸を熱くしながらそれを読んだ。これは読者が増田の視線を借りながら木村政彦に惚れていく本でもある。
もっとも心を奪われたのは、木村とエリオ・グレイシーが闘いを通じて心を通わせていくくだりである。強く厳しい木村には素朴で優しい素顔があった。そのことがエリオとの対話の中でわかるのだ(思想家として名を馳せた師の牛島と対照的に、木村はいつまでたっても熊本出身の悪童のままだった)。だからこそエリオは自分を子供のようにあしらった木村の実力に敬服し、自分の腕を砕いた技・腕がらみをキムラ・ロックと呼んで自身の技体系に組み込んだ。最晩年のエリオ・グレイシーの述懐は、木村政彦に対する最大の敬意を表したものである。
「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘られぬ屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない。五十年前に戦い私に勝った木村、彼のことは特別に尊敬しています」
講道館が黙殺し七段のまま留め置いている男。力道山が日本マット統一のために利用し、負け犬として葬り去った男。その真価は日本ではなく、地球の裏側で伝えられ続けてきた。
(杉江松恋)