パオロ・ジョルダーノの長篇『兵士たちの肉体』(2012。日本語訳は飯田亮介訳、早川書房、2013年)は、戦争小説だ。

戦争というと、あなたはどういうものを想起するだろうか?

戦争というと、私はつい油断して、歴史の教科書や年表に載っている記述のように考えてしまう。
たとえば「1991年、湾岸戦争勃発」とか「1945年、第2次世界大戦終結」とか。
そこにある戦争像は、簡略化された、くっきりしたものしかない。

「クウェートに侵攻したイラクを、国連に派遣された多国籍軍が空爆した」
「日本はポツダム宣言を受諾し、連合国側に降伏した」

なんだか「クウェート」「イラク」「日本」という個人がいるみたいに考えている。また「米国」「英国」「フランス」「韓国」「アフガニスタン」など37人からなる「多国籍軍」という集団が存在するみたいに考えている。
日丸屋秀和の『Axis powers ヘタリア』という漫画のようなもの、どころか、その全キャタクターからさらにキャラクター性を完全に脱色して、





みたいな簡単な人型の図にしてしまったようなものだ。



日 独 伊 英 米 ソ
个 个 个 个 个 个
人 人 人 人 人 人

【油断しているときの私の脳内の「第2次世界大戦」像】


油断するにもほどがある。こんなものが戦争なわけがない。

現役の戦争といえば、アフガニスタン紛争だろう。
米国がイスラム主義運動「アルカーイダ」を2001年9月の米国同時多発テロの首謀者と名指した。アルカーイダの指導者を引き渡さなかったアフガニスタン(タリバーン政権)にたいして、米国や英国(だけがやったように、油断していると私は思ってしまっている)やその他の国による多国籍軍が「対テロ戦争」をしかけた。
2011年、パキスタン北部でウサマ・ビン=ラディンが射殺されたと米国のオバマ大統領は発表したけれども、だからといってアフガニスタン紛争が「終結」したというわけではない。

先ほど書いたように、アフガニスタンに軍を派遣したのは英米だけではない。聞くところによると、国際治安支援部隊(ISAF)は国連に承認された多国籍軍だそうだ。その指揮権は戦闘激化とともに北大西洋条約機構(NATO)に移り、ISAFにはNATO非加盟国も数多く含む約40か国が参加しているという。
油断しているとここでまた私は、ISAFをAKB48のようなグループとして考えてしまいそうになるが(チームNATOとチーム非NATOがある)、当然のことながらこの像もまた間違っている。
戦争のひとつひとつの作業は、偵察であろうと作戦会議であろうと連絡であろうと攻撃であろうと迎撃であろうと暗号解読であろうと、すべて、ひとりひとり体と心を持った人間がやっているのだ。
報道や歴史の教科書の文体では、この「戦争はひとりひとり体と心を持った人間がやっている」ということが、油断した状態の私には伝わりにくい(そして私は1日の大半を油断して暮らしている)。


報道機関の発表した文書ではなく、ジャーナリストが個人名で発表したノンフィクションを読むと違うのかもしれないけれど、いまの私にたまたま身近なのは小説のほうだ。
小説は作り話だから、そこに書いてあることを鵜呑みにはしない。けれどその作り話がときとして、前線に行ったことのない油断した私の「現実観」(たとえば戦争像)の化けの皮を剥ぎ、それが「もっと粗悪な作り話」であるという事実を私につきつける。パオロ・ジョルダーノの長篇『兵士たちの肉体』もそういう小説だった。

『兵士たちの肉体』は、20代の終わりにアフガニスタン南部フォブ・アイス基地を取材した作者が、そこで出会った若いイタリア兵たちに触発されて書いたものだという。
小説、とくにリアリズム小説というものの最大の特徴は、ものごとを普遍化させず、個別の事態として記述する傾向を持っているということだ。
たとえば──
当たり前だけれど、兵士たちの時間のなかで、戦闘していない時間のほうが長い。戦闘以外の「生活」がある。作中に登場するトルスという兵士のように、軍事機密さえ守れば、エロチャットだってするだろう。その相手がネカマかもしれないという疑惑にだって悩むだろう。
トルスのエロチャットを背後で見ていたザンピエーリという女性兵士は、無情にも〈それ、男ね〉と言い切ってしまうのだ(89頁)。
ロンドンブーツ1号2号の田村淳の結婚相手についての世評を見てもわかるとおり、女の人って男の「都合のいい女にたいする甘い妄想」に異様に厳しいよな。
夢くらい見せてやれよ前線なんだから。

前線であっても、男はエロチャットをするし、女は男の夢に意地悪く水をさす。
前線であっても、若者は童貞であることを引け目に思うし、年長者はその若者をからかう。
前線であっても、家族に直面したくないと考える者がいるし、故国で女を妊娠させてしまったけどどうしようと迷っている者がいる。

『兵士たちの肉体』では、登場人物たちの多くがそういう人間臭い、ときに滑稽でときに深刻な悩みを抱えていて、つまり全員が「問い」を発している。
私が読んできたイタリアの小説は、多く見積もっても100冊程度と決して多くないけれど、その乏しい経験上、イタリアの小説って(この『兵士たちの肉体』のようなリアリズム小説だけでなく、もっと実験的な非リアリズム小説においても)人生の諸問題に真正面からぶつかってくるよなあ、ということだ。

若いころは現実逃避のために小説を読んでいたので、イタリア小説のそういうところが苦手だったけれど、いまは「自分にないもの」を求めて小説を読むことがよくあるから、そういうイタリア小説の「体臭」が少し嬉しい。

『兵士たちの肉体』は全体の頁数の約6割を占める第1部でイタリア兵たちを生きた人間としてきっちり書いたあと、いよいよ第2部(約2割)で壮絶な作戦遂行、第3部(約2割)では後日譚を書いている。このややいびつに見える配分も、もちろんこれでなければならなかったのだ。
この小説に書かれたことのひとつひとつが、油断しているときの私が戦争といって思い浮かべるものから、いちいちはみ出している。油断しているときの私が戦争といって思い浮かべるものには、「体臭」が欠けていたのだ。
訳者のブログで「訳者あとがき」が読めるので、併せてお読みいただきたい。

なお、『兵士たちの肉体』の原題Il Corpo umanoは「人体」という意味だ。あるいは「人間の死体」という意味にも取れる。
(千野帽子)