2013年10月10日、清水博子さんという小説家が45歳で亡くなった。追悼するのではなく、記憶しなおすために、この文章を書いている。


かつて批評家の石川忠司さん(佐野元春似)は彼女の短篇「空言」を評して、このように書いた。

〈基本的に「不潔」なテイストをもつ清水博子の散文はこの作品でも好調だ〉(『ドゥードゥル』附録に引用された《文學界》1998年7月号「新人小説月評」)。

この評言を読んだ人は、どういうこと?と一瞬疑問に思うかもしれない。〈好調〉とは、「アイツの不潔具合が絶好調なのでムカつく」という意味ではない。そうではなく、
「基本的に「不潔」なテイストが、清水博子の散文の魅力であり、新作「空言」も順調に「不潔」なのでOK」
という意味なのだ。

内容が不潔なのではない。
不衛生な題材をあつかっているのでもなければ、不道徳な(比喩的な意味で「フケツよっ!」と言うような)題材をあつかっているのでもない。
いや、人によっては不道徳と言いたくなるような題材(他人の日記を盗み読みするとか)は出てくるけれど、不道徳だからいいとかダメだとかいった意味で書かれているわけではない。

どういう意味で〈不潔〉なのかは後回しにして、彼女の作品をいくつか、駆足でご紹介したい。
清水博子は1968年、旭川に生まれた。早稲田大学第一文学部(文芸専修)を卒業後、1997年、「街の座標」ですばる文学賞を受賞して、作家としてデビューした。
『街の座標』(集英社文庫)は150頁足らずの中篇小説だけれど、読むのにはかなりの緊張感が強いられる。
というか私が読んだ彼女の作品はどれもそうであり、デビュー時からそうだった、ということだ。

語り手は文学部の学生で、卒業論文の題材にIという小説家を選ぶ。〈I〉の作品には〈S区S街〉のことがよく出てくる。
〈わたし〉は世田谷区の、下北沢と三軒茶屋のあいだくらいに住んでいる。多くの大学生がそうであるように、〈わたし〉だって熟慮の末に題材を選んだわけではない。
ただIの作品(全作品ではない。
1冊だけ)が頭に残っていたから題材に選んだだけなのだ。だからIについてよく知らない。よく知ろうともしない。Iが〈わたし〉の部屋の窓から見える建物に住んでいるということも、だから、その友人に教えられて知ったくらいである。
それを知ってますます動揺し、〈わたし〉は頭のなかでIのことをぐるぐると考えたまま、卒論がまったく書けない。ありがちなことである。

好きすぎるものについて人は、まともな文章を書けるわけがない。そのとき人は、その対象について書くことができなくなっている。文章を書いても、「それを好きなわたし(=I)についての文章」しか出てこないのだ(嫌いなものについても同様である)。
ところでこのIという小説家は、いくつかの点で、ある実在の小説家を容易に想起させるように書かれている(ひとつだけ挙げるなら、その実在の小説家のある3部作のヒロインはアイという名である)けれど、同時に、最初のほうからその実在の小説家ではないことも強調されている。ここのところ注意。

このあと彼女は、短篇小説2作を収めた『ドゥードゥル』(集英社)、野間文芸新人賞を受賞し芥川賞候補にもなった中篇『処方箋』(集英社文庫)、私が惚れこんで拙著『文藝ガーリッシュ』(河出書房新社)で熱弁を振るった連作『ぐずべり』(講談社)、互いの日記を盗み読みしあい、相手が読んでいると知ったうえで日記のなかでそれをぶっちゃける30代姉妹の1年間の日記によって構成される長篇『カギ』(集英社)、外資系OLが婚約者の母親(阪神間・六甲の有産マダム)の家に厄介になる『vanity』(新潮社。
これも芥川賞候補)を刊行した。

1998年に最初の本を出してから2006年までの8年間に、6冊の小説(集)を刊行し、うち2冊は文庫化している。でも、いまは6冊とも版元品切重版未定だ。『vanity』が本になってから7年半以上、新しい本は出なかった。
といって、彼女が引退したという話はない。デビューしてからの年数のうち、本を出してきた時間と、本が出なくなってからあとの時間とがほぼ同じ長さになる(あるいは後者のほうが長くなる)ことは、文筆業者の人生ではよくあることだ。
そういう事態は私にも訪れるかもしれない。

読むということ、書くということについて、書きながら考える。読者には、読みながら考えさせる。そういう自家中毒的な小説は多いけれど、そういう小説はしばしば不健康な感じになる。書くということについてバカになりきれないからだ。
小説を書き続けるには、ある程度腹をくくってバカになるか、さもなければ書き続けることについて自分で反省してしまう自家中毒を一種の芸にするか、という選択肢にぶつかってしまう。清水博子はしばしば後者を選び、『街の座標』や『処方箋』ではそれが魅力になっていた。この2作と、『ぐずべり』連作は、私にとってとても大事な作品になっている。

いっぽう『ドゥードゥル』の表題作や『カギ』ではその自家中毒の毒がかなり強い。
とくにアゴタ・クリストフの『悪童日記』(堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)をちょっとだけ思わせるメタミステリ的な構成の『カギ』では、記述者の姉妹のうち、姉の性格の悪さはまあいいとしても、妹があまりに気持ち悪いせいで、私は読後体調を崩した。この文章のために再読して、やっぱり体調を崩した。

石川忠司さんはどういう意味で、清水博子の散文が〈不潔〉と言ったのか。
私なりに言い換えると、読者に緊張感を与え、ストーリーそれ自体に没頭させないためのノイズが、計算ずくで数多く文章に埋め込まれているということだ。
ストーリーやキャラクターに集中させてくれる、つるんとした文章のほうが、多くの人には好かれるだろう。つるんとした文章は清潔で埃ひとつ落ちていない。埃や塵を書いてもつるんとしている。でもそういう文章は、退屈な文章になる。だから世間で人気の小説はしばしば、ただオタクっぽくて退屈なのだ。つるんとした文章で書かれた小説のうち、その人工的な感じや表面温度の低い感じを魅力にできるのは、ごく少数の例外だけだ。
清水さんの文章は、どうしたら自己言及的なノイズを作中にちりばめることができるか、を考えて書かれていたように思える。
それをしても〈不潔〉にならない作品だって世のなかにはあるのだけれど、清水さんのは、ページのむこうから読者に向けてたくさんの、使って洗っていないフォークを突き出してくるような感じだった。清水さんの文章を読むということは、ページから突き出た無数の先端に目をさらすということだ。

書くことの後ろめたさを、厚かましいほど露悪的に書いている。読んでいて、1頁たりとも安心できなかった。読むことの後ろめたさをつきつけられていた。イイ気になって本を読んで、イイ気になって感想を書いたりしている私には、正気に返るためのイイ薬だった。ありがたかった。なのに懲りもせずこうやって清水さんの小説の感想を書いている。ごめんなさい。会ったこともメールでやり取りしたこともなかったけれど清水さんの小説が好きでした。
(千野帽子)