先日、李龍徳(イ・ヨンドク)の文藝賞受賞作『死にたくなったら電話して』(河出書房新社)についてここでご紹介したが、こちらの金子薫『アルタッドに捧ぐ』(同)も、同じ回の文藝賞受賞作だ。

主人公の本間は、小説を書いている。
主人公はエニマリオ族の少年モイパラシアだ。
ところが、本間の書きかけの小説の主人公モイパラシアは、作者・本間のあずかり知らぬ形で、ソナスィクセム砂漠の南西部で貨物列車に轢かれて死んでしまうのだ。自殺だと思われる。

〈原稿用紙の上には、列車によって切断されたと思われる少年の左腕が、無造作に投げ出されていた。切断面からは黒インクが血液の如く流れ続けており、もはや執筆など続けられる状態ではなかった〉。

パソコンではなく手書き原稿という設定ならではの印象的なヴィジョンだ。
こうやってこの小説は冒頭で、読んでいる僕を作中世界に引きずりこんだ。

それにしてもモイパラシアがアロポポルの世話を放棄して死ぬとは。

アロポポル(セツア語で「石柱」)はソナスィクセム砂漠原産の、幻覚成分を含むサボテンで、エニマリオ族は白人の濫獲からこの種を守るために闘っている。
本間はモイパラシアの腕を原稿用紙に包んで庭に埋めるが、その直前に原稿用紙に体長20センチほどのソナスィクセムハナトカゲの幼体がいるのを見つける。
アルタッドだ。モイパラシアが名づけて飼っていた。
本間は〈「アルタッド、よく出てきたなあ」〉と声をかけた。その晩本間は、夢でモイパラシアに会い、アルタッドの世話を任せられ、アロポポルの苗を渡される。一か月後、庭の腕を埋めたあたりからアロポポルが生えてくる……。

ここまでの冒頭部分を読んで、メタフィクショナルなファンタジーを期待してしまうかもしれない。
でも、書いちゃいますが、このあとアルタッドが口をきくことはないし、アロポポルを狙って作中からやってくる悪い白人相手に本間が武器をとるなどという展開も待っていない。
このあと、ただただ本間とトカゲの静謐な同居生活が書かれる。
そして読み終わったとき、読者はとても「いい時間」を過ごしたのだということを納得する。

〈同じ砂漠の出身であるアロポポルの芽を見せてやりた〉くて、庭に生えたアロポポルの芽の近くに本間がアルタッドを降ろしてやる場面。
〈アルタッドはアロポポルの芽を発見すると、コオロギを捕らえるときのような速さで走りだした。〔…〕アルタッドは舌をぺろりと出して、表皮を一舐めした〔…〕。間違いなくアロポポルであることを確認するために舌を使ったのであろう。
アルタッドはアロポポルの芽の周りをグルグルと這い続け、決してそこから離れようとしなかった。
部屋に連れて帰ろうと、手を差し伸べると、アルタッドは大きく口を開いて威嚇の構えをするのであった〉

うわ、なんかカワイイぞ! 作者は記号としての「かわいさ」を排して、愛情をもってリアルに爬虫類を書こうとしている。
小説でも漫画でも、動物は擬人化・記号化の度合いが少ないほどカワイイという法則がある。法則って、僕が言ってるだけだが。
この小説に出てくるトカゲのアルタッドは、まさに爬虫類それ自体をびしっと書くことを意図して書かれている。だから読んでいて、「そうそう、爬虫類ってこんなだよね」というように、世界を再発見することができる。
とにかくこの小説でのアルタッドは、ものを食べてるさまも、寝てるようすも、目を開けてじっと呼吸してるだけのようすも、全部が魅力的だ。
それを読むための小説なのだ。

本間は大学を卒業したばかりの23歳。週に何度か雑誌編集部で雑用のアルバイトをしながら、一度落ちた大学院の入試に再チャレンジ中だ。
奇しくも『死にたくなったら電話して』の主人公が大学受験三浪中の浪人生だったこともあり、2014年の文藝賞は2本とも「浪人生小説」だった。
両主人公ともに独り暮らしとはいえ、大阪・十三の賃貸物件に住む『死にたくなったら電話して』の徳山と違って、『アルタッドに捧ぐ』の徳山は、死んだ祖父の家でいまは父名義の駅徒歩6分の庭つき一軒家という好条件の住環境を独り占めしている。
なんだかライトノベルの登場人物みたいな優雅な住環境。
人づきあいのない、隠遁者みたいな生活だ。ええ、こういうの羨ましいと思っちゃう派です。
本間がやることと言ったら、トカゲにコオロギや野菜や果物をあげることと、サボテンに水をやることくらいだ。いい! そういう暮しをしてみたい!
しかも都合がいいことに、たまに会ってくれる大学時代の元カノの亜希という人まで存在しているのだ。どことなくモラトリアムを生きている感じの、そしてそれを自覚している本間に、現在は会社員の亜希は、つぎのように自立をうながしたりしている。

〈「そりゃね、怖い上司もいるし、仕事って憂鬱なことばかりよ、だけど、作家だって仙人じゃないんだから、上司だっているわよ、きっと」
「書くことが仕事になればなあ」
「私が言ってるのは、書くことを仕事にする以上は」
「上司がいる」
「そういうこと」〉

元カノ、会社員ならではの切り口です。
〈物語から逸脱してしまったという理由で、彼はモイパラシアの死を恐れていたが、「文学的な上司」に立ち向かうべく、再びペンを執ろうと心に決めた〉
ここ、がんばれ!と言ってしまうのは僕が勤め人だから?

小説のオープニングこそ意表をつくけど、そのあとストーリーが波瀾に満ちているわけでもないし、登場人物たちもできごともきわめて清潔だ。こういう「悪」を濾過処置してしまったような世界のほうが、小説としての強度が問われるのだと思う。
そして小説の最後には「なにか」が起こるのだけど、その「なにか」は具体的な「なにか」というよりは、アルタッドとの暮らしを経て本間に起こる「世界の再発見」とでも言うべきものだ。
主人公とたちといっしょに最後のページでふっとリラックスできたなら、この小説を読んでいたあいだのあなたの時間は幸福な時間だったということがわかる。少なくとも僕はわかった。そういう小説だと思う。
(千野帽子)