アメリカに、ある少年がいました。ある大学に入学願書を送って、受け取った大学職員たちは歓迎ムードでした。
願書とともに送られた作文には「地元のギャングたちから離れて、理想とする大学で学びたい」という内容が書かれていて、このような「逆境を乗り越える」姿勢はこの大学の求めるものだったからです。

職員たちは彼をもっと知りたいと思って、彼の名前を検索してみました。今の時代、あらゆる面接や選抜でよくあることです。

彼のSNS「マイスペース」のページがヒットし、そこには「アウト」なことが書き連ねられていました。ギャングのシンボルや、非行、暴言。職員たちは、「なぜ学生は、我々にウソをつくんだ」と思って愕然としました。


職員たちは、分かりやすすぎるぐらいの「SNS勘違い」をしてしまった。こういう例のように、大人がSNSのことや「若者+SNS」での色々な状況をうまく理解できないことは、少なくない。

実際にはこの少年の周囲では、少年院に入るようなことが勲章で、「まともな」世界に旅立つことは強い裏切りであり、許されないことだったりしたのかもしれない。少年が地元のギャングのターゲットにならないよう、SNSでは「目くらまし」のためにわざと悪事を「演出」していたとしても不思議ではない。

さて、旧年度が終わり新年度が始まって連休中に地元に戻る人がいたり、この時期は多くの人が移動して新しい環境になじんでいく。そういう中で、SNSの役割もとても大きいです。


大学合格や就職内定が決まった時点で、まだ学校や会社が始まっていないうちからSNS上ではもう「友達グループ」が組織されていたり、小中学生の親同士までネットワークが作られている。

これだけの「頻度」や「強さ」でFacebookやLINEが使われていても、実際に「小中高生がどんなふうにSNSを使っているか」について「偏見なく、子どもたちのためになるような考え方」ができる人は、どれだけいるでしょうか。逆に冒頭の例のような「文脈や背景を切り離して、悪い方に解釈してしまう」人が、多いような気がします。

『つながりっぱなしの日常を生きる』は、「若者とインターネット」に関する研究者である著者の調査集大成とも言える本。調査の舞台はアメリカですが、10年間近くにわたってインタビューなどを集め、移り行くさまざまなSNSサービスについて丁寧に考察された内容は、日本の若者にも当てはまることが多いです。冒頭の例のような少年少女が豊富な事例で「実際」を教えてくれます。


ワイドショーが放送時間を埋めるために大声で騒ぐ「インターネットは犯罪の温床!」「10代が出会い系で被害者に!」「SNS中毒になる!」のような偏見はもちろん「正しい理解」を邪魔する。それだけでなく、「デジタルネイティヴは生まれながらにコンピューターやネットワークに囲まれており、自然にそれらを使いこなす」などの偏見も、若者全体に悪影響を及ぼす。

大人もそうかもしれないが、若者はSNSでもオフラインと同じようなメンバーで、同じようなコミュニケーションをおこなう。「ネットは世界中とつながっている」といっても、興味関心・好む雰囲気があるので、なかなか「異種族」と接することがない。むしろ地元・学級などの、オフラインでの関係性を濃縮し、強化する。

コンピューターが苦手なグループは得意なグループとの接点が少ないまま、ずっと絵文字を貼り合って過ごす。
「絞り込み検索」も「公開範囲設定」も、使う必要がなければ覚えない。スマートフォンがあってもコンピューターに触れる時間がなければ、多くの「リテラシー」が身につかないまま大人になる。そういう人も「デジタルネイティヴ」と呼ばれてしまっているのだ。

恐怖をあおるわけでもなく、これが実態。不平等が不平等のまま放置され、大人は「スマホばっかりさわっていないで勉強しないさい」「気をつけなさい」と、根本的でない指示しかしない。若者は、自分のことや社会のことを学び、急激に変化したり悩んだりしながら、同時にネットリテラシーも自力で学習していかなくてはならない。
この負担を、社会が少しでも助けてあげれば、どれだけ彼らのためになるだろうか。

この本では各章「アイデンティティ」「プライバシー」「中毒」「危険」「いじめ」「不平等」「リテラシー」「パブリック」と、テーマごとにインタビューや考察がまとめられている。若者がどんな文脈や社会的意味をもってSNSでの行動を起こしているか、大人や社会がどんな「逆効果」を日々やってしまっているか、ページをめくるごとに痛感できる。

僕も読後、この社会を構成している一員として、「これからはこうしよう」と思うことがいくつもあった。『つながりっぱなしの日常を生きる ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』ダナ・ボイド著、野中モモ訳。草思社より。

(香山哲)