ラジオ番組「永六輔とその新世界」が、アバンギャルドで、パンクな番組になっているのだ。

メインパーソナリティーは、永六輔。
TBS、毎週土曜午前8:30-13:00、4時間30分の番組だ。
2009年ごろ、ろれつが回らなくなり、その後、パーキンソン病であることを公表。
2009年に転倒、右足小指骨折。2011年にまた転倒、入院・手術。
だが、永六輔は番組をほとんど休まない。ろれつが回らないときでもゲストとともに喋る。病室から出演する。2012年に退院して車椅子でスタジオに向かう。

たとえば、永さんが黙ってるので、アシスタントの外山恵理アナウンサーが声をかけると「寝てるのに起こすなよ!」と怒る(というギャグ)。笑う。
しまいには、「みんなで見つめ合って、誰かしゃべらないかなーって思ってる番組になってきた」なんて言いだすのだ。
ありえない!と驚愕、耳が離せない。

番組の最後に、永さんが、大きくためいきをついて、外山さんが「なんで、最後にためいきなんですかー」って突っ込まれて終わったりする。

ネットでは、「耳障りで老害だ」なんていう書き込みもある。
悲しくなる。
お叱りを覚悟のうえで書くのだが、番組を聴いていて、静かに考えてしまうのは、「介護の現場」であり、高齢化社会となる日本の未来だ。
それを簡単に「耳障り」といえるだろうか。
番組も、永さんも、そのような批判が出てくることを承知で「番組をずっと続けていこう」という決意を持っている、それが伝わってくる。
老いるということを、マイナスに捉えるのではなく、続けていこうとする意志として、表現しようとしている。

たとえば、2012年の3月10日の放送。
震災と空襲のことを話ながら涙ぐむ。泣き声で言ってることが判然としないときはアシスタントの外山恵理さんがリピートする。
なので、そのままテキストにはできないので、少し整理して再現するとこんな感じだ。

永六輔:卒業式の日なんですよ、シーズンとして。
外山恵理:そうですねえ。
永六輔:六年生。疎開していて、ぼくは五年生で、見送ったんです。六年生は、ぜんぶ、と、と(泣いて聞き取れない)
外山恵理:東京に帰った、んですね。
永六輔:(泣いて分からない)
外山恵理:空襲にぶつかっちゃったわけですね。
永六輔:空襲まっただなか(泣いている)。
外山恵理:ええ。
永六輔:(泣きながら)それを見送っちゃって。
外山恵理:それを永さんは見送ってしまった。
永六輔:いま、話していてもつらい。
外山恵理:3月10日。
永六輔:上級生、ぜんぶ亡くなっている(泣く)。
(中略)
永六輔:あのとき大本営が「日本は神の国だから絶対に勝つ」と言ってた。国民は受け入れていた。東電と大本営は言ってることが同じ。情報をどう受けとめるかを学ばないといけない。
外山恵理:はい。
永六輔:でも、ぼくがいい例で、忘れてるんですよ、大事なこと。燃えている、(泣いて)大空襲の中に帰っていった、あの、ぼくらの世代だったらわかってもらえる(泣いて聞き取れない)、忘れてるのが悔しい。(泣いて)あー、つらい。
外山恵理:はい。
永六輔:3月10日は、(泣いて)東京大空襲の日なんです。
外山恵理:はい。ちょっと、テッシュで涙ふいていただいている間に(以下、冷静に提供を読み上げる)

CMあけ、すぐに、リスナーから届く。
「また泣いた。こっちももらい泣きしてしまう」
「外山さん、われわれにはまったく何を言ってるのか分からないが、見事に通訳してくれた。通訳で食べていけるぞ」
それに対して永さんは「言ってるほうだって何言ってるかわからないんだから」と答える。
外山さんは「(こんど泣きそうになったら)永さんのひざ、つねることにしますから」と言って、みんなで笑う。

2012年の退院してすぐの放送は、車椅子でスタジオにあらわれた。
胸のボタンのところに無線のナースコールがついている状態だと説明して、やきそばがいかにおいしそうかを力説。
車椅子で初詣の縁日に行くと、目の高さがふつうのこどもぐらいの目の高さになる。
いつもと違う風景がある。
やきそばが山のように積んであるのを下から見上げる。やきそばを焼いているのがちょうど目の高さにあって、匂いが届いてくる。それが、どれだけ、うまそうか!

震災直後も特別番組にせずにレギュラー番組としての生放送だった。震災後、いまも被災地やボランティアの情報を伝えながら、自分の体験を通した話をしてくれる。

こんなラジオ番組、他にないよな。と驚愕しながら、もらい泣きして笑っている。
TBSラジオ、毎週土曜午前8:30-13:00、「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔とその新世界」
今日4月10日は永六輔さんの誕生日、おめでとうございます。永さん、元気で、ずっとラジオを続けてください。(米光一成)