宮崎駿が長編映画を引退する、というニュースにあわせ、今晩は急遽『紅の豚』が放映されます。
とはいえ、宮崎駿は毎回フルスイングすぎて、引退話が常に出ているので、色々考えてしまうのですが。


そこにきての『紅の豚』。
だよね! ここで流すのは、ラピュタでもトトロでもパンダコパンダでもわんわん忠臣蔵でもなく、『紅の豚』しかないでしょう。
軍事ネタこそが、宮崎駿の「裸」の部分ですから。

●ミリタリーへの興味
『紅の豚』の原作は、モデルグラフィックスで連載していた『宮崎駿の雑想ノート』の中の『飛行艇時代』。完全な趣味の連載でした。
宮崎駿は常に表と裏の2つに挟まれていました。

表側は、自然を愛し、人が生きることを謳う、エンターティナー。
裏側は、軍事への興味関心が高いミリタリーマニア。
表裏一体なのですが、映画にするとなると非常に難しい。

「僕は、政治的には再軍備も反対だったし未だにPKOも反対な人間なんですけれど、軍事的なことについて、一貫して興味を持っているんですね」
「それで、まあ不思議なことがいっぱいあるわけです。なんて愚かなことをするんだろうってなようなことがね。それを何十年もやってますと、雑学って溜まってくるんですよ。
で、溜まってくると出したくなりますから、その妄想を描いて……(笑)」

(アニメージュ95年12月号)
「戦車に限らず軍事一般は人間の暗部から来るものなのだ。人類の恥部、文明の闇、ウンコだゲロだ」「ウームおもしろいなんという愚かさだ……」
『泥まみれの虎−宮崎駿の妄想ノート』
「実はこういう趣味をやって行くっていうのは、人にはとても言えないことですけれども……頭の中で無数の空中戦をやり、無数の海戦をやっているんです」
(『宮崎駿の雑想ノート』)

「異常犯罪を研究している者は犯罪者だとでもいうのかね」と言いつつ、ずぶずぶとミリタリー趣味は高まり、雑想ノートはボリュームを増していきます。まるで映画製作の合間に、息抜きをするかのように。
こうして作られた『紅の豚』。
すごいバランスの作品です。あらゆる欲望を詰め込んでいるのに、しっかり娯楽作ですもの。

空飛ぶ真っ赤な戦闘機。アドリア海の美しい光景。待ってくれる美しい女性。
あとなによりフィオ
宮崎アニメ屈指の反則少女。豚な自分を慕ってくる勝ち気な少女ってもうね。
ロリコンとマザコンのファンタジーが全部つまった究極ヒロインですよ。もうたまらないよ!
しかし、宮崎駿は趣味のバランスについて腑に落ちなかったようです。

「あーいうことをやっちゃいけないっていうのは、終わった後の結論でございます、ワハハハッ!!」
「魔がさしたんです……、ああいうのは……」
(『宮崎駿の雑想ノート』)

万人に向けて映画を作るエンタティナー宮崎駿の、「娯楽作品」と「趣味」に挟まれた悩みでした。

●『紅の豚』のファンタジー部分
『紅の豚』が多くの人に愛されているのは、ミリタリー趣味の臭みを消して爽快に描き、フィオというロリコン要素を原作でいなかった女性ジーナで調整し、宮崎駿ワールドをバランスのよいエンタテイメントに仕上げているからです。
しかし、エヴァンゲリオンの監督・庵野秀明はかつてこう語りました。

庵野「『紅の豚』はもうダメです。
あれが宮崎さんのプライベート・フィルムみたいですけれど、ダメでした。僕の感覚だと、パンツを脱いでいないんですよ。なんか、膝までずらしている感じはあるんですが、あとは足からパンツを抜くかどうか。パンツを捨てて裸で踊れば、いよいよ宮崎さんは引退を決意したかなと思います。」

(1996年「クイックジャパンVol.9」・「スキゾ・エヴァンゲリオン」

庵野秀明はなぜ『紅の豚』が「パンツを脱いでいない」と言ったのか?
確かに宮崎駿のミリタリー浪漫丸出しっぽく描いた作品ですが、よく見るとエンタメ化のためにぼかしている部分があります。

一つは主人公の豚、ポルコ・ロッソの乗っているサボイアS.21試作戦闘飛行艇。この飛行艇、実在のものではありません。
モデルになっているのはマッキM.33という飛行艇なんですが、宮崎駿は「この飛行機はぜんぜん資料をもってない! 名前もインチキだからね! ワハハハッ! 小学生の時に見た写真が一枚なんですよ」と述べています。あえて正確にしない。

二つ目に、原作からそうですが、人を大怪我させる・殺している描写がない。ポルコは今は空中海賊を追っているものの、殺しません。しかし第一次世界大戦中は戦友を失い、自分も殺しているはず、なんですがそこが曖昧。かといって反戦映画でもない。ここが実際に人を殺すナウシカやアシタカと違う所。

三つ目は、ラストシーンでファシズムの動きがはじまってみんな散っていくのですが、それがなんなのか、戦争につながるのか明言していない。あの世界は「戦争らしきもの」のノスタルジィに満ちていますが、結局戦争を直接描いていない。映画制作中に旧ユーゴスラビアの民族紛争が起きたため、ファシズムへの批判を込めたそうですが、そこも明確というほどではない。

そして最後は、豚だということです。

『雑想ノート』も序盤を除き、男性キャラは人間ではありません。
ドイツ戦車研究家との対談では「イヒヒッ」「フシシシ」と笑い、漫画で描いた元ドイツ陸軍少尉オットー・カリウスに出会うと質問攻めにしている宮崎駿。実に幸せそうです。
宮崎駿は軍事について、ものすごく調べています。それをわざと、ちょっとズラして、ファンタジー化・豚化して描きます。計算して現実と虚構をないまぜにしています。
その一部は、半ば照れ隠し。「資料的価値はない」と書き添えたり、ペンネームを「宮崎グズオ」と書いてみたり。茶化しています。

これらのネタを一般向けに平坦化し、ジーナというつなぎとめるキャラクターを作って、娯楽作にパッケージングしたのが『紅の豚』。
だからこそ、安堵感あふれる浪漫物、ファンタジー作品としてまとまった。
飛行艇かっこいいよね、と楽しめるようになった。実際、飛行艇浮遊感は群を抜いてよくできています。
ただ、作品完成度と、監督の納得度は一致するとは限りません。

●宮崎駿の素の部分
映画ナウシカで巨神兵のシーンを担当した庵野秀明は、以前から漫画版のナウシカを非常に高く評価し、アニメ化したいと宮崎駿に今も言い続けています。
それはエンタメで飾ること無く、宮崎駿の本性がむき出しだから。漫画版ナウシカは人を殺します。色々な穢れをちゃんと背負っています。
『雑想ノート』も豚ではあるものの、かなり趣味むき出し。良い意味で自慰的です。
老若男女楽しめるエンタティナー・宮崎駿とは別の、素の宮崎駿の顔です。

ここで、同じモデルグラフィックス連載の『風立ちぬ』との関係が見えてきます。
『風立ちぬ』のコミックも、フォーマットは出てくるキャラクターが全員豚でした。エンディングも全然違います。
これをバッサリと捨てて、軍事部分は本物を描き、豚から人間に戻し、ファンタジー部分を絶妙に残しつつちゃんと対峙したのが映画『風立ちぬ』。
庵野秀明的には、ミリタリー趣味を出したのに大衆向け作品になった『紅の豚』はパンツ半脱ぎ。自分に向き合い、パンツを脱いだのが『風立ちぬ』ということになります。

『風立ちぬビジュアルガイド』では庵野秀明はこう語っています。
庵野「いずれはやると思っていました。70過ぎまでやらないとは思わなかったですけど。70過ぎてこれかと(中略)「ポニョ」をやって、そのリバウンドがこれっていうのはいいですね」
庵野「やっぱり年齢は大きいです。72を過ぎてようやく20歳過ぎの映画ができたっていうのはすごいです。宮さんがちょっと大人になっているんです。師匠に失礼な言い方ですけど、宮さんは基本的に大人じゃないんです。でも、子供でもない。少し大人に近づいた映画を作られたんですね。だって、足が地についてるんですもん。今までちょっと浮いていましたから」

先の「パンツを捨てて裸で踊れば、いよいよ宮崎さんは引退を決意したかなと思います」が引っかかってきます。
パンツ脱いだ宮崎駿がすごかったのは、『風立ちぬ』の賛否両論っぷりを見ればわかるはず。しかし、パンツ穿いている宮崎駿が超一流のエンタティナーであることに変わりありません。
宮崎駿のむき出しのパンツ脱いだ本性『風立ちぬ』も面白いし、きれいにまとめた娯楽作『紅の豚』もしっかりと面白い。
表現者・宮崎駿のミリタリーとの距離の取り方の二通りの解なのです。

宮崎駿が今後どうするのかは、わかりません。
まずは『紅の豚』と『風立ちぬ』、似ているけれども異なる2つの映画を見て、作品の面白さ・表現したかったことを再確認しておきたいところ。
あ、『風立ちぬ』のロリコン部分は、やっぱり妹ちゃんだよね。

興味がある人には、『泥まみれの虎』の中にある「生きねばならん、IV号で」を是非読んでいただきたい。2つの作品の間にある溝と苦悩が見えるはずです。
ぼくは、新たなる、枠にとらわれない「雑想」を見せてくださいと願うばかり。戦車、戦車が見たい。あと少女。
でも宮崎駿は、一度やったことは二度やらない人。……そこが好きなんだけども。


『宮崎駿の雑想ノート』
『泥まみれの虎ー宮崎駿の妄想ノート』

(たまごまご)