5月25日に起こったAKB48握手会事件。
「有名税」といった揶揄は論外だが、「接触ビジネスの功罪」というのも違う。
今回のこの事件は、たまたま握手会会場で起こってしまった通り魔事件だ。コンサート会場や街頭で起こっていたとしてもおかしくなかった。もちろん、握手会のシステムは今後変更せざるをえないだろうが、それは「接触ビジネスが悪い」からではない。

突然振るわれたこの理不尽な暴力に、48グループのメンバーたちは怒り傷ついている。これまで彼女たちは、さまざまな理不尽さに翻弄されてきた。つらい経験をして、それを乗り越えたときに「物語」になり、成長する……それが48グループの特徴ともいえる。
けれど今回は全くタイプが異なる。「AKB48なら誰でもよかった」と無差別に傷つけられる理不尽さは、アイドルが成長するのにまったく必要のないことだ。

1つ、どうしても気になってしまうことがある。48グループでは、過去ドキュメンタリー映画が3本製作されている。アイドルたちの日々に密着して、48グループの中で起きたさまざまな変化や事件を描いているものだ。
4本目も現在製作中で、今年2014年の7月4日に公開が予定されている。
タイトルは『DOCUMENTARY of AKB48 The time has come 少女たちは、今、その背中に何を想う?』。峯岸みなみのスキャンダルから、大島優子の卒業、そして6月8日に発表される選抜総選挙までが描かれると予想されている。
このタイミングで起こってしまった事件。ドキュメンタリー映画はどのように触れるのだろうか?

2作目の『to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』では、トップアイドルでいることの大きすぎるプレッシャーが描かれている。3作目の『NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』では、恋愛スキャンダルで辞めたメンバーを取り上げ「アイドルの恋愛」についても問う。
AKB48のドキュメンタリーは、「アイドルの苦悩」や「理不尽にさらされて成長する少女」については巧みに表現できる。
良い意味でも悪い意味でも「物語」にできるのだ。震災に関しても、1人のメンバーにスポットライトを当て、震災に対するグループ全体の活動を描くことで、「アイドルと震災」といった形で扱うことができた。
けれど今回は全く違う。どんな取り上げ方をしても、メンバーたちの成長にはつながらない。

最近、「ああ、これはAKB48のドキュメンタリー映画と近い」と感じた作品がある。
4月から公開されている「アクト・オブ・キリング」。
ジョシュア・オッペンハイマー監督による2012年に製作されたドキュメンタリー映画だ。

本作の主人公は、インドネシアのやくざ・ならず者・ギャングにあたる「プレマン」のアンワル・コンゴ。1960年代にインドネシアで起こった恐ろしい「事件」の実行者の1人だ。彼らは過去の行いに対して罪悪感を抱いている様子を見せず、むしろ誇らしげに語っていた。
「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」
オッペンハイマー監督の提案に、アンワルたちは賛同した。彼らは「本人役」として出演し、当時の行いを「再演」することになったのだ。

過去を思い出し、語り、実際に演じてみる。その再現した映像を見ることで、さらに記憶や感情は深まっていく。その中で、アンワルにある変化が訪れていく……。

パンフレットや各評論は、「アクト・オブ・キリング」で起こったことを「演劇療法」「ロールプレイング」と称している。
アンワルは、映画を撮るにあたって、「アンワル・コンゴ」を演じた。それは「他人から見られたアンワル」であるし、「他人から求められているアンワル」でもあるし、「自分が『こうありたい』と思っているアンワル」でもある。
演じているうちに、ぼんやりしていた自分がはっきりとしてくる。そして極めつけは、映像の確認だ。撮られた映像を確認して、「これはアンワルらしくない」と思ったり「自分はこんなアンワルだったのか」と発見する。

オッペンハイマー監督はインタビューでこう語っている。
「アンワルにとっては自画像を描いては一歩引いて全体像を見直し、そしてまた描き進めるというような作業だったと思います」

「アクト・オブ・キリング」は、「罪を発見してしまう」物語だ。それはもともとアンワルの中に潜んでいたように描かれている。けれど、意地悪な見方をすれば、「罪を心の奥底に隠し持っているアンワル」という、他者から期待された役割を描き演じてしまったと言うこともできる。

48グループのドキュメンタリー映画は、ある1点において、「アクト・オブ・キリング」に近い部分がある。
メンバーたちは常にカメラにさらされている。「裏側」「素顔」と言われても、大なり小なりカメラは意識する。「見られる自分」に自覚的になり、少なからず演じる。できあがった映像を見て、ファンの反応も知って、「アイドルや自分に求められているもの」を悟り、自分の中で構築していく。
そのように機能するのはドキュメンタリー映画だけではない。秋元康の作詞する楽曲自体がその働きも持っている。『AKB48とブラック企業』(イースト新書/坂倉昇平著)では、「ファースト・ラビット」や「清純フィロソフィー」、「そこで何を考えるか?」などのさまざまな曲が、ファンに対するメッセージであると同時に、メンバーに強く影響していると指摘している。

「傷つくこと恐れはしない 何があっても怯まずに 自分の夢を探しに行く」
「清純を守りたい 制服を脱ぐまでは…」
「初めて後輩に 私のポジションを 取って代わられたのがショックだった」

これらの曲を、メンバーは秋元康からのメッセージとして受け取っている。歌いこめば歌いこむほど、自然に内面がこの曲に寄っていく。いつの間にか、この曲が「自分の意思や決意そのもの」と思うようになっていくのだ。

これまで、ドキュメンタリー映画はメンバーに対してそのように機能していた。理不尽な現場を描き、それでも乗り越えるアイドルの強さを、そうしたアイドルでいることの尊さを描き、伝えていた。
けれど今回の事件は違う。「いきなり赤の他人に傷つけられる可能性がある、しかもそれは本人に全く非はなく、避けるのも難しい」……そんなつらい現実を描いても、メンバーの内面になんらプラスにはならない。

これまでAKB48のドキュメンタリー映画が積み重ねていた手法と趣向では、今回の事件はうまく扱えない。扱ってしまうと「映画」としてちぐはぐになってしまう可能性もある。それでも、まったく描かないのはドキュメンタリー映画として奇妙にも思えてしまう。どのようにこの問題を解決するのかは、7月4日になるまでわからない。
(青柳美帆子)