先週の月~土に放送されたNHKの連続テレビ小説「マッサン」の第5週。鴨居商店の鴨居(堤真一)からの誘いを断ったマッサンこと亀山政春(玉山鉄二)は、あらためて住吉酒造社長の田中大作(西川きよし)とともにウイスキーづくりの夢をかなえようと誓い合う。
2人して資金づくりのため奔走、やっと開催にこぎつけた株主会議で好感触を得るが、最終的に出された結論は彼らの夢を打ち砕くものだった。辞表を提出したマッサンを、大作は「どこへでも行ってまえ!」と心とは裏腹の言葉で送り出す――。

大作社長を演じたのは、昨年、芸能生活50年を迎えたタレントの西川きよしである。所属する吉本興業の後輩、島田紳助からかつて「あの腰の低さはきっと何か魂胆があるはずや」と疑われ、ダウンタウンからは、その過度なサービス精神と律儀な性格が「しんどい」と、彼らの番組で「西川きよししんどいわ裁判」という企画まで組まれた。ある雑誌の密着取材中には、テレビ番組の収録前に司会の明石家さんまの楽屋へあいさつに出向き、「うわっ。こっちから行かんといけないのに」とさんまをあわてさせている(「AERA」2003年12月15日号)。
「マッサン」における暑苦しいほどに人情味あふれ、どこまでも腰の低い大作社長は、やはり西川きよしという人そのものであった。

■「クマ」役で人気番組に初出演
横山やすしとのコンビで漫才師として名声をあげた西川だが、じつは出発点は役者である。中学卒業後、自動車修理工場に就職したものの、勤務中の事故で大やけどを負ったのを機に退職、一転して芸人をめざした。ミヤコ蝶々や藤田まことといった売れっ子に弟子入りを断られた末、西川少年は喜劇役者の石井均のもとに行き着く。東京で一座を率い、伊東四朗や財津一郎を育てた石井は、このころ大阪の松竹家庭劇に長期客演していた。西川少年は、石井のもとに9日間通いつめ、ようやく弟子入りを許される。
1963年2月、西川が16歳のときだった。

それから石井が東京に戻るまでの1年間、西川はみっちりしつけられた。大阪・朝日放送のディレクターだった澤田隆治は、スターとなってからの西川の評判がどこでもいいのは、石井の最初のしつけの厳しさに負うところが大きいと書いている(「新劇」1976年12月号)。それでも、石井のしつけには厳しいなかにも愛情が込められていたようだ。あるとき西川は、父親が弟子入りの際に買ってくれた時計を楽屋でなくし、石井から「楽屋でなくしたなんて言ったら、みなさんにご迷惑をかける。絶対にしゃべるな」ときつく叱られた。
だが、そのあとで新しい時計を買ってもらったという。「ほんまの気遣いとは、ああいうもんですね」と西川は後年振り返っている(「週刊朝日」2011年10月21日号)。

石井の帰京後の1964年、西川は吉本新喜劇に研究生として入った。そこで秋山たか志の付き人、さらに白木みのるの付き人として修業を続ける。白木はちょうど朝日放送の人気番組「てなもんや三度笠」に小坊主の珍念の役でレギュラー出演しており、やがて西川は毎週その収録現場に顔を出すようになった。おとなしくて行儀のいい彼は「キー坊、キー坊」とみんなにかわいがられたという。


そんな折、「てなもんや三度笠」でクマの出る話があり、誰に着ぐるみをかぶらせるかがスタッフのあいだで話し合われた。このとき、吉本のマネージャーから「舞台でぬいぐるみの役といえばキー坊がやっているから、彼にやらせてください」と提案があり、西川の「てなもんや」への初出演が決まる。リハーサルから熱心で、四つん這いになってクマを演じるうちにズボンの尻が破れてしまった。動物園にも足を運び研究を重ねたというその演技は、こののち、番組にほかのタレントがクマの着ぐるみで出演するたび、「西川きよしはうまかったよな」とスタッフのあいだで話題になるほどであったという。

■「漫才に天才はない」が持論
その翌年の1966年には、横山やすしに誘われてコンビを結成、6月に京都花月で初舞台を踏み、10月にはテレビの演芸番組に初出演した。1959年に15歳でデビューして以来、何度もコンビを解消してきた横山は、漫才ではなく役者出身の西川を相方に迎えることで再起を図ろうとしていた。
ただ、いきなりテンポのあるしゃべくりを西川に期待するのは無理なので、動きのよさと体力を武器に、どつき漫才で勝負することにした。また、漫才では先輩だからといって、横山は自分のやり方を押しつけることはせず、西川がセリフを間違えたり飛ばしたりしても、とにかく相手に合わせ、うまくペースを持続するよう心がけた。

デビュー当初、2人は懸命に稽古したという。だが、しばらくすると横山はサボり始める。稽古嫌いだった彼は、ことに稽古をしているところを人に見られるのをいやがった。西川はそんな相方を稽古に連れ出そうと、楽屋で羽交い絞めにすることもしょっちゅうだったらしい。
それでも稽古をしたあとで舞台に立つと、横山の顔つきはあきらかに違ったという。こうした体験から西川は、「漫才に関して天才なんていない」としきりに語っている。

天才肌で破れかぶれな横山と、努力家で慎重な西川と、性格はまるで違ったが、それがよかったとは当の西川がたびたび語っている。しかし彼は一面では、頑固で容易には引き下がらず、決断力も持っていたようだ。コンビ結成時には、会社から「ベース・ボール」というコンビ名を用意されたのに対し、逆に「横山やすし・西川きよし」という名前を提案し、認めさせたのも西川だった(ちなみに横山は芸名だが、西川は「潔」をひらがなにしただけの本名である)。その性格から、のちにはコンビの交渉役を務めることにもなる。

1970年に横山の暴行事件によりコンビで謹慎を強いられたときには、仕事存続の危機にありながらも、大きな家に引っ越すことを決断している。また、たった一度だけ横山に付いて競艇に行ったときには、舟券をいくつかに分けて購入する横山に対し、一点買いを続け、最終レースではついに大当たりする。もっともこのとき、西川は手元に残った10万円を全部注ぎこもうとして横山に止められ、結局1万円しか賭けなかった。それだけに帰りのタクシーでは気まずい雰囲気が流れたという(木村政雄『やすし・きよしと過ごした日々』)。

■横山やすしとの訣別と「参院議員・西川潔」の実績
そんな西川の人生における最大の勝負は、やはり1986年の参院選で当選し、政界に進出したことだろう。横山とは初当選から半年後にテレビ番組で久々に漫才を披露したとはいえ、これを境にコンビは事実上の解消となった。

西川によれば、出馬の意志を最初に伝えたのは、相方の横山だったという。きっかけは、テレビ局のスタジオで本番待ちをしていたとき、横山から不意に「キー坊は何が楽しみで仕事をしてるんや?」と訊かれたことだった。自分は競艇もやるし、飛行機好きが高じて自家用機まで買うなど趣味がたくさんあるが、キー坊にはそれがない、ようするにもっと弾けろと言う意味合いで横山はそんな質問をしたのだ。これに西川は、デビュー当初から続けてきた特別養護老人ホームや孤児院、障碍者施設などへの慰問を通じて、福祉の重要性を感じるようになったこと、またこれまで応援してくれた大阪の人たちに恩返しがしたいと話した。それでも「どういうこっちゃ?」と真意をつかみかねる相方に、西川はやっと選挙に出たいと打ち明けたのである。横山もそのときは「よっしゃ、そんならワシも応援したる」と応援を約束してくれたという。

しかし西川は、その後いったん立候補をとりやめると横山に連絡してきて、それにもかかわらず約1週間後に突如として出馬会見を行なったため、横山を怒らせたとも伝えられる。小林信彦『天才伝説 横山やすし』には、その経緯のほか、横山が自分は西川に捨てられたということを、しきりに周囲に漏らしていたことが記されている。

このあたりについては、当人たちにしか知りえない事情も多分にあるだろうし、どう判断すべきか悩むところだ。小林の著書によれば、タレントの上岡龍太郎は、西川の出馬時に彼がタレント議員向きだという理由として「権力志向の人間であること」「非常に世話好きであること」「偽善家であること」の3つをあげたという。元相方・横山ノックの政界進出により、トリオ漫才からピンでの活動に転身を余儀なくされた上岡ならではの毒舌だ。とはいえ3期18年にわたる西川の議員としての仕事ぶりを振り返れば、「権力志向」「偽善家」との見方は外れたように思われてならない。

西川は病欠した2日を除いて、国会期間中に欠勤することはなかった。議員になって最初の3年は法律の勉強に専念し、国会図書館に毎日通いつめたという。質疑案は自分の言葉で練り、国会質問は350回を数えた。そのしつこさから、ときの厚生大臣に「また西川に指摘される」と嫌がられたこともあったようだ(「文藝春秋」2014年1月号)。方々から入党に誘われながら2004年に議員をやめるまで無所属を貫いたのは、是是非非でやりたかったのと、ポストなどをめぐり権力争いに巻き込まれるのを避けたかったからだという(「週刊文春」2004年5月13日号)。

そのなかでたとえば、年金の振込日が休日にあたる場合、従来は休日後の支払いだったのを休日前に変更したほか、ポリオワクチンによる二次感染者救済、有料道路の障碍者割引制度の拡充など、実現した政策は福祉関係に集中している。衆院議員より任期が長く、解散もないので、特定の課題に専念しやすいという参院議員のメリットを十分に生かしたともいえるだろう。

元マネージャーの木村政雄によれば、西川の実生活と芸能人・政治家としての生き方とのあいだに、大きな矛盾やギャップはないという。それに対し相方の横山は後半生、本名の「木村雄二」としての実像と「横山やすし」としての虚像とのギャップが広がるにつれ悩み続けた。そのうえで、横山が「最後の芸人」だったとすれば、西川は「最初のタレント」であったのかもしれない、と木村は書いている(『やすし・きよしと過ごした日々』)。

最後にもう一度、「マッサン」に話を戻せば、ドラマの放送前の予告番組で、西川は外国人ヒロインについて問われ、「僕は(家に)帰ったら、同じような顔をした人がおりますので、あまり違和感はない」と語っていた。西川の妻のヘレンが、アメリカ人の父親と日本人の母親を持つハーフであることに掛けたジョークである。

西川が吉本入りした頃、同い年のヘレンはすでに新喜劇の看板女優だった。彼女とまだ駆け出しだった西川が結婚を決めたとき、会社は猛反対、どうしても一緒になりたいのなら西川がやめろとまで言われたという。それをヘレンがすっぱり引退を決意、やがて漫才師に転身した西川を支えていくことになる。西川の政界進出のきっかけとなった福祉活動も、長年妻と一緒にやってきたことだった。こうして見ていくと、いずれ数十年先には、きよし・ヘレン夫妻を描いた朝ドラもつくられそうである。いや、その前に相方を主人公にした「やっさん」も見たいところだが……いや、さすがに朝ドラ向きではないか。
(近藤正高)