松尾スズキが2000年に発表した初めてのミュージカル「キレイー神様と待ち合わせした女」が、2005年の再演以来10年ぶりに再々演されている。

14年前の作品にもかかわらず色あせるどころか、今のほうがより強烈に響いてくる内容であるが、そこにあぐらをかかず、書き換えられた部分もいくつか。
そのため、初見のヒトは、こってり濃厚ラーメンを味わうように楽しめるし、何度も見ているヒトは、変わらない味も残しつつ、14年経っても柔軟な店主の健在を大いに喜ぶだろう。

物語の舞台は、過去でも未来でもないパラレルな日本。
100年間に渡って3つの国に分かれた民族紛争が続く中、民族解放軍を名乗るグループが、少女(多部未華子)を誘拐、監禁していた。
10年もの地下生活の後、少女はついに地上に脱出。過去の記憶を失い、自らを「ケガレ」と名付けた少女が新天地で出会ったのは、ダイズでできているダイズ兵・ダイズ丸(阿部サダヲ)、その死体回収業で生計を立てるカネコキネコ(皆川猿時)とその息子で、頭は弱いが枯れ木に花を咲かせる能力を持つ少年ハリコナ(小池徹平)、ダイズ加工会社・ダイダイ食品の社長令嬢カスミ(田畑智子)たちだった。
強烈にクセのある彼らにもまれながら、ケガレは小銭を拾って「いじましく」したたかに生きてゆく。
その様子を見つめるひとりの女(松雪泰子)、それはケガレの成人した姿であるミソギだった。ミソギの存在によって、物語は多層化し、ミステリアスな様相を呈していく。

戦争で死ぬために生まれた、生殖機能のない人間ダイズ兵、その死体を食べて生きる人々、人間をダイズ兵と食品偽装する者、誘拐監禁された過去のある少女、誘拐・監禁することでしか女性と一緒にいることのできない男、自分の家が行っているダイズ加工を反対する団体を支援することで精神バランスをとる女などなど、「戦争」「去勢された男」「誘拐」「監禁」「食品偽装」・・・といった刺激的なキーワードが現代にはびこる病巣とぴたりと重なる。
それを松尾スズキが14年前に既に描いていたことを驚くと同時に、問題が解決することなくますます深刻化していることに絶望も覚えざるを得ない。
皮肉なのは、この物語の中で、小銭を拾ったり、死体を食ったりしながらいじましくしたたかに生きる人たちの姿が今、ますます希望を与えてくれるということだ。

弱者にとことん優しい松尾の作品が、今こそ必要とされているのを痛感する、その最たる例は、誘拐監禁された主人公ケガレの過去のトラウマの解消の仕方だ。
穢れたという思いを拭えず記憶を失ってしまった少女が、クライマックス、ある心境に着地する流れは、涙なくしては見られない。

成人した「ケガレ」が「ミソギ」と名前が変わるのは、穢れが取り払われた証。初演、再演では「ミサ」という名前だったが、今回「ミソギ」と改名されている。再演にあたって台本が変わることはよくあるが、登場人物の名前が変わるのは珍しい。
その理由を松尾はパンフレットで「そうしたほうが、話がわかりやすくなると思ったんです。昔はそのわかりやすさに対して警戒心があったんだけど、でももう記号的になってもいいかって思うようになって」と語っている。


「ミサ」はキリストの磔の前夜の儀式であり、「ミソギ」は「罪やけがれをはらうために身を清める」こと。確かに後者のほうが端的に物語を示している。
ただ、松尾の「ミソギ」は「ケガレ」が全くなくなったというよりは「ケガレ」も「キレイ」も人間には必ずあるのだから、たとえ「ケガレ」たとしても、別に問題じゃないという視点に立っている。

その視点を高らかに訴えるのが「ここにいないあなたが好き」という歌だ。
ダイズ会社の令嬢カスミとその婚約者の将校(村杉蝉之介)のデュエットソングは、傍から見たらうらやましい存在である社長令嬢と将校が、本当はもっといじましいのだと吐露し、そんな本当のちっぽけな自分のためにも、今「ここにいないあなたが好き」と歌う。その歌詞は、誕生から14年、フェイスブックでリア充を演じたり、匿名で悪口書いたりすることが日常茶飯事となった現代に驚くほどフィットする。


ノリのいいおバカソングのようで、「本当の私はここにいない」「ここにいないあなたが好き」と歌う時、なんとも切なくて溜まらない気持ちになるのは心の中に押し殺していた、本当の自分が解放されるからだろうか。
しかも、こういう状況をシリアスに歌い上げるのではなく、おもしろ可笑しく歌い飛ばすからこそ効いてくる。

歌詞の中には「人間とは多面体で」というものもありそこでは、人間が、善意をふりまいたその手で、悪意をネットに書き込むようなところがあることを指摘。
そのように善も悪も、キレイもケガレも、貧しさも豊かさも、悲しみも喜びも、どっちもあるのだと認めることによって、誰もが救われる。

社会的弱者を描いた作品は古今東西たくさんある中で、弱者をカワイソウという視点で描くのではなく笑うことで、人間すべてを等価値にする松尾の作風については、ずいぶん前から語られてきたことだけれど、こういう視点が今、ますます必要とされているのではないだろうか。
汚されることは女性だけの問題に限らず、男女問わず、いろいろなことで差別され、傷つけられている者がいることを描いた「キレイ」は、誰もを優しく包み込む。
こんなに平等な物語はなかなかない。

松尾は多面体な人間性を「リバーシブルのジャケット(ジャンパーだったか)」に例える。
これは、先日、ドラマ「ごめんね青春!」で、宮藤官九郎がDVDのパッケージと中身の違いで見た目と中身の違いを語ったことと似ている。私はこのドラマのレビューで、この表現の前身が「池袋ウエストゲートパーク」の11話にあると書いた。これは2000年6月放送で、「キレイ」の初演も2000年6月なのだ。同じ時期に同じようなことが語られていたとは感慨深い。


宮藤が松尾主宰の大人計画に所属し、入団当初は松尾の演出助手をつとめた、松尾の弟子筋に当たることは有名な話で、初演の「キレイ」では盲目の男ジュッテン、再演では、監禁男マジシャンを演じている。
おそらく「キレイ」は宮藤にとっても印象深い作品であろう(今回は宮藤が演じた役をオクイシュージと田辺誠一が演じている)。宮藤脚本の中の、人間の多面性、多層性は、松尾の影響を大きく受けていることを改めて認識した、今回の再演であった。

面白いのは、宮藤の「あまちゃん」に出演していた、尾美としのりや小池徹平が参加していること。
「あまちゃん」ファンが「キレイ」を見て、宮藤の先に松尾スズキが走り続けていることを痛烈に感じられたら最高だ。

「キレイ」フリークには、前述のミサからミソギへ名前の変化のほか、初演で古田新太、再演で橋本じゅんが演じたダイズ丸を、ハリコナという当たり役を小池徹平に譲った阿部サダヲが演じていること、主人公が奥菜恵、鈴木蘭々を経て多部未華子になったことによる変化や生演奏など、楽しみどころがいっぱい。
ただ、あの破壊的な歌(これから観るヒトのために伏せます)がなくなったことはちょっと残念な気もしないではない。変化していくことでいいこともあれば損なわれることもあるとは思うが、すっかりメジャーになった主要俳優の阿部サダヲが、マスクで顔を隠して、別の役も演じ、率先して空気を煽っていることに、大人計画の劇団員なのだということが感じられたのは心地よかった。
初見のヒトも、既に見たヒトも見逃せない。(木俣冬)