『シン・ゴジラ』、一言でいえば最高。二言でいえば超サイコー!でしたね。

情報量は詰め込めるだけ詰め込み、スピーディなカット割で次から次へと画面が転換する。しかし「セリフが早口で聞き取れない」という声はあっても、混乱したというボヤキは聞いたことがない。怒涛の情報量が整然とコントロールされ、入り口から出口まであっという間に運ばれるジェットコースター映画になってる奇跡。
「シン・ゴジラ」はあの大災害がエンタメにかけた「呪い」の憑物落としである
劇場用パンフレット


フツーの人たちがそれぞれの立場でやるべきことを遂行し、ゴジラという国難を乗り越えるプロジェクトX。この表現は特撮映画に思い入れのない人でさえ心打たれ、公開2週後も興行収入トップを走っている(まぁ最大のライバル『ワンピース』が公開3週目という事情はあるが)現実をよく説明している。

でも、ただ事じゃない爽快感は、それだけじゃ説明できない。
綿密な取材、微に入り細にうがった考証に裏打ちされたリアリティを積み重ねて、「思考停止していたタブー」を踏み越えているから」じゃないか。『シン・ゴジラ』は多くの人々を囚われていた何かから解放する「憑き物落とし」だったのだ……。
ということで、ネタバレ全開でお送りします。いま語っておかないと、見てない人達が興味を抱かないまま上映が終わる悲しい事態が起こるかもしれないから。間に合わなくなっても知らんぞーー!!

「震災」という憑き物


今回のゴジラは東北大震災であり、原発事故だ。海から押し寄せて文明を瓦礫の山と炎の渦に叩き込む脅威、赤く光ってメルトダウンしそうな怪物を冷やそうとホースを突っ込む作戦行動。その進行ルートが放射能の拡散と一致している足取り。
そもそも市民に放射能を検出する計器が普及してるこの世界は「その後」かもしれない。

しかし、ゴジラは日本のせいでもなんでもない。政府がどうの東電がどうのという「原罪」がないし、たびたび飛び出す「想定外」という言葉も、本当に想定外だから。原発事故は昔から考えて用意しとけよ!だったが、巨大不明生物災害なんて誰も想定してるわけがない。

原発事故当時、急にバトンを渡された民進党(当時は民主党)政権。「枝野寝ろ!」とツイートしてた人達の何割が今でも民進党支持かを考えると切なくなるが、ほとんどの人が死力を尽くして頑張っていたはず。
日本政府が最大のポテンシャルを発揮したはずの事件が、今度は「原罪」抜きで起こったら? あの災害をゴジラに置き換えて「政治色を抜きにしたシミュレーション」にしたことで、壮大なエンターテイメントに仕立てているのです。

震災はエンタメに長らく「呪い」をかけてきた。地震が出てくるからこの回は延期、津波は忌まわしい記憶を呼び覚ますからダメ。『崖の上のポニョ』でさえ震災の影響で放送を見合わされた一件は「言霊が災いを呼ぶ」ムラの習わしが蘇った感もありました。

その一方で、遠い未来の文明が衰退したあとのディストピアを描く某アニメも、美術設定から「滅び」を大幅に割り引く必要に迫られたという。この国はかつてない体験をしながら、エンタメにすることを禁じられてきたわけ。
廃墟に変えられた太田区蒲田の凄絶な光景に「やめろ〜庵野!」といろんな意味で頭をかきむしった映像関係者も多いんじゃないですかね。


そうした巨大不明生物(ゴジラ)災害に対して、日本政府は会議また会議。「非効率“じゃない”会議」が描かれた邦画や実写ドラマは珍しいというか、個人的には生まれて初めて。役にも立たない御用学者(この3人が大御所アニメ監督に似てるのが最高)をサクッと切り捨ててるんですよ!
はじめ巨大不明生物の可能性に耳が貸されなかったのも、憶測による風評被害が現実にあった過去を考えると頷ける対応。「シッポ」がテレビに映されて、さっと前言を翻すいい意味での節操なさも政治家の集まりらしい。

会議に時間をかけ、その結論を受けて各省庁が動くのも民主主義の原則に則ってる。
官僚が勝手に動くことは「効率的」ではなく独断専行だし、統一した意志のもとで役割分担してこそ無駄がなくせる。「どの省庁に言ったんですか?」(という趣旨のセリフ)は、文民統制が健全に機能してる証拠だ。

大河内総理も周囲に丸投げしてるようで「詳しいやつに任せる」という態度はトップとして正しい。「総理!ご決断を!」と何度も繰り返される中で、まだ避難してない人を発見したときの苦渋の「決断」にも涙が出る。あの局面で別の判断をする為政者の下で住みたくないですよ。

災害対策基本法と自衛隊法のくだりに付いては、詳しくない筆者が語るとボロを出すので省略。
ただ、憲法第9条は「他国との間の紛争の解決の手段としては」であり、国家でもないゴジラに全く関係ないので、それをネタにしてる批評は読まなくていいんじゃないでしょうか。「日本の会議システムは非効率」という憑き物も落としてくれる『シン・ゴジラ』!

「ヒットするが評価されないゴジラ映画」というジンクス


ゴジラ映画はどれもそれなりにヒットする。平成シリーズに限っても、最低ラインの『ファイナルウォーズ』が累計動員が約100マン人で興行収入は12億3500万円。ピークに達した『ゴジラVSモスラ』は420万人/約51億円で、まだまだ及んでない『シン・ゴジラ』をゴジラ復活と持ち上げすぎるのも危険だ。

ただ、ゴジラは初代を除いて「客は入るが褒められない」シリーズでもある。個人的にも『ゴジラVSスペースゴジラ』は嫌いじゃないが、観光地を見せるためだけに鹿児島から博多まで九州縦断したゴジラをかばうのはちょっと難しい。

『シン・ゴジラ』の評価は今のところ高い。批判する声が聞こえてくるのも「無視できない作品」ということ。「たかが特撮映画」という空気なら、こうもネットの隅々で『シン・ゴジラ』の名前を目にしないはず。

その理由の一つは、「ゴジラを知る科学者・牧吾郎の顔写真として登場する岡本喜八監督」に象徴される日本の古典映画に対するリスペクト。日本が危機に直面したときの官僚や政治家の動向は『日本のいちばん長い日』だし、石原さとみと長谷川博己がクライマックスで語り合う建物は『太陽を盗んだ男』で菅原文太とジュリーが対決したところ。「現実対虚構」というキャッチも、「太陽」の原題の一つだった「日本対俺」を本歌取りしてると指摘されている。

庵野総監督は『トップをねらえ!』でガンバスターの噴射してる炎が『宇宙大怪獣ガメラ』のそれを再現したという、細かすぎて伝わらないネタをやった人。それは「細部まで構造にこだわる」完璧主義であり、『シンゴジラ』の批評も「全日本映画VSオレ」ぐらいの覚悟が問われるわけですよ。

そしてゴジラが圧倒的にコワイ。今回は何回か変形することはすでに有名のはずですが、第二形態で魚のように死んだ目で蒲田を這うゴジラは津波そのもので、最終形態は無敵。さらに攻撃が効いたかと思えば、タチが悪い100万倍返し。ゴジラ、早く死んでくれ……。 

要するにゴジラでありエヴァの使徒であり(鷺巣さんのBGMもあり)『巨神兵東京に現る』であり、日本の誇る破壊者を混ぜ合わせたら“神“になったということ。世界で勝負できる白組のCG力が、庵野さんや樋口監督らアニメ畑の想像力を支えて、「恐怖」を超えた「畏れ」にたどり着いたのです。

そうした神々しさに加えて、過去ゴジラへの深いリスペクトもあり。巨匠・伊福部昭のBGMがここしかないというタイミングで流れ、ゴジラの咆哮も聞く人が聞けば昭和や平成ゴジラの各作品からチョイス。そもそもキーマンの「牧吾郎」って84年版『ゴジラ』に出た新聞記者の名前だし、口に液体を流し込む最終作戦も「薬は注射より飲むのに限るぜ、ゴジラさん!」=『ゴジラVSビオランテ』なんですよ。

つまり庵野総監督こそ「最強のゴジラマニア」であり、マニアが口を挟む隙がない。「評価されないゴジラ映画」という憑き物は、取り付く島もなし。

「ヤラレ役」の電車、ついにゴジラに復讐!


ゴジラ映画の多くに協力している自衛隊。しかし、ほとんどはやられ役だ。現実の火力で巨大不明生物を倒したら身も蓋もないのは分かるが、それにしたって一撃で壊滅するなよ! アントニオ猪木の風車の理論は「相手の強さを引き出し、それを上回る強さを見せる」ことだった。自衛隊が強くないと、ゴジラも強く見えない。



今回、おそらくゴジラシリーズの中では最強の自衛隊。不意を打たれることなくベストな状態で布陣し、戦車の砲撃は一発も外さず、戦闘ヘリからのミサイルは全弾命中。うん、現代の重火器管制システム、練度の高い自衛隊員による照準、しかもマトは全長100メートルを超えるデカさ。やっと自衛隊が全力を出し切れたから、初めて納得できる「敗北」が描かれたのだ。

やられ役の過去が長くてひどいほど、「憑き物落とし」の効果はてきめん。初代ゴジラで「列車を噛み砕くゴジラ」は印象に残りやすいシーンだったが、それから蹴飛ばされたり踏み潰されたり、日本の鉄道は60年以上もやられっぱなしだ。

『シン・ゴジラ』でも京急がやられ(一社だけ!)、また古き伝統を守っていた。するとクライマックスで、電車に爆薬を満載した「無人在来線爆弾」を投入! ゴジラに対する人類の最終兵器が、ヤラレ役の底辺にいた電車。しかも京急の仇をJRが取った……どんだけ涙腺を刺激する文脈を重ねてくるんだ!

その前には、地上からゴジラの足元に放った砲撃が進路に影響があったことや、米軍機が投下したバンカーバスターで流血が確認されたことで「大量の火薬」(航空機より質量が詰める列車×4)が有効という伏線ありきだ。日米安保に助けられてゴジラに復讐を果たした電車たち……と思うとグッとこみ上げてくる。

『シン・ゴジラ』は日本にまとわりついていたモヤモヤを吹き払う「つきもの落とし」映画だけど、決して安易な「日本すごい」映画じゃない。石原さとみというファンタジーがいなければ、ゴジラの喉笛にアメノハバキリ(凝固剤を投入する車両部隊のコードネームで、ヤマタノオロチを倒した剣の名前が元ネタ)は届かなかった。その存在を通じて描かれたアメリカのあり方も、「国家のエゴむき出し」と「個人の善意」の合わせ技でで政治的に無色にしていたが、「どちらにしても日本の命運を手にしている」現実にしみじみ。

ゴジラを倒せるポテンシャルがあるかもしれないこの国が、なぜ政治的・経済的に漂流しているのか。映画館から元気を持ち帰り、現実の「憑き物落とし」をしたくなる作品ですよ。
(多根清史)