稲垣吾郎がMCを務めるTBSテレビのブックバラエティ番組「ゴロウ・デラックス」。で「日本の文豪の素顔に迫る特別企画」と題し、三島由紀夫がとりあげられた。


ちょうど今月9日には、近年発見された三島由紀夫のインタビュー音源を全編活字化し、解説を加えた『告白 三島由紀夫未公開インタビュー』(TBS ヴィンテージ クラシックス編、講談社)が発売されたばかり。番組では同書を課題図書に、これまで知られていなかった三島由紀夫の素顔、文学、芸術、死生観などについてトークが展開される。ゲストには三島由紀夫に関する著作もある作家の岩下尚史が出演。岩下といえば、かつて新橋演舞場に勤め、歌舞伎や能にも造詣が深い。今回公開されたインタビューでは、三島が歌舞伎や能について語ったくだりもあるだけに、まさに解説者にうってつけだ。
三島由紀夫は「本当に意地悪な、本当に嫌なじいさん」になれなかった
『告白 三島由紀夫未公開インタビュー』(講談社)。長らく未公開のままTBSで保管されてきた三島へのインタビュー音源を約半世紀ぶりに発掘し、書籍化したもの。インタビュー中に出てくる三島の評論「太陽と鉄」も再録する

美輪明宏も驚いた「素で話す三島」


三島由紀夫は1970年11月25日、自身の創設した「楯の会」のメンバーらとともに陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乱入、隊員らにクーデター決起を訴えたのち、割腹自殺を遂げた。それから今年で47年が経つ。
それが、ここへ来てまだ未公開のインタビューが出てくるとは驚いた。なお、くだんのインタビューは1970年2月19日、三島が亡くなる9ヵ月前に収録されている。

『告白 三島由紀夫未公開インタビュー』の巻末では、発見者である小島英人が、テープを見つけ、公開するまでの経緯についてくわしく記している。小島はTBSテレビで長らく報道記者を務め、2005年には「英霊漂ふ~三島由紀夫自決・35年目の夢枕~」というドキュメンタリーも制作した。現在はTBSホールディングスで、TBSの社内倉庫に残るクラシックやジャズの演奏会を収録した音源を発掘し、「TBSヴィンテージクラシックス」というCDシリーズのプロデュースを手がける。くだんの三島へのインタビューもそうした業務のなかで発見された。
それも何らかの理由で放送されなかったテープの棚にしまいこまれていたという。

録音された声と内容は三島由紀夫であることはほぼ間違いない。しかし小島は慎重を期して、遺族や関係団体に連絡を取り、公開まで数年をかけて裏づけをとった。一方で、このインタビューは何のために録られたのかについても調査を進める。インタビュアーのジョン・ベスターはイギリス人の翻訳家で、評論『太陽と鉄』(本書に再録)など三島作品の訳者であることがわかった。収録日も不明だったが、元担当編集者への取材から突きとめている。


ベスターは何を目的に三島に話を聞いたのか? その答えは本書に譲るとして、生前の三島を知る人にとって、これはかなり異色のインタビューらしい。歌手・俳優の美輪明宏は、TBSの取材を受け、《なんと無防備なんだろうって感じます。珍しいですよね。本当に素で話してらっしゃる》と驚いた。

「素で話している」というのは、たとえば、次のような箇所を指すのだろう。それは司会者が、ベスターに三島についてパーソナルなことで何か質問がないかとうながし、《例えば、平岡公威(きみたけ)さんというのが三島さんの本名なわけですが》と伝えたときのこと。


三島 それはおもしろいかもしれない。外国人の読者に、三島の本名はパブリックディグニティだ。
ベスター え?
三島 そういう名前なんです。
司会 公に、威力の威です。
ベスター あっ、わかりました。
三島 みんな笑うでしょうね(笑)。

司会 でも、姓のほうは非常におとなしいじゃないですか。
三島 姓はプレーンヒル。
司会 平らな岡、公の威力・威光の威。
三島 プレーンヒル・パブリックディグニティ。ハッハハハハ(笑)。

自分の本名をネタにしてしまう。
こうしたサービス精神は、たしかにほかの三島のインタビューではあまり見られないかもしれない。

聞き手であるベスターもベスターで、三島が自分の文学に欠けていると思うことは何かと、かなり率直に質問をぶつけている。これに対する三島の答えがまた、彼の小説を読んだことがある者なら、しごく納得のゆくものといえる。

70歳になった自分についても語っていた三島


インタビュー自体はさほど長いものではない。収録時間は総計1時間20分。200ページ余りの本書の半分にも満たない。それでいて出てくる話題はじつに多岐にわたる。前出の小島英人の言葉を借りれば、《その多様さは三島由紀夫の当時の思索の全貌を窺い知るに足るものがある。川端康成論であり、ダンディズム論であり、文明論であり芸術観であり、認識論であり、現代人への嘆きであり、小説の方法論であり、欠点の告白であったりする。言葉における強固な保守主義であり、未来の創作の種まで開陳している》。三島が座談の名手であったと知るには十分だ。

三島の晩年のインタビューとしては、亡くなる1週間前に録られた文芸評論家の古林尚によるものがあり、没後、書籍への再録(古林尚『戦後派作家は語る』などに所収)、CD化もされている。こちらは、すでに死を覚悟していたであろう時期であり、相手が思想的に対立関係でもあっただけに、かなり緊張感が漂う。それに対し、ベスターによるインタビューでの三島はじつに余裕を感じさせる。

はたしてこのとき彼は自分が9ヵ月後に亡くなることを、どれだけ意識していたのだろうか。なかには《七十歳の三島さんのことをどういうふうに……》と訊かれ、《本当に意地悪な、本当に嫌なじいさんになっているだろうと思いますね》と答えている箇所もある。

結局、三島は「嫌なじいさん」にはなる前に死んでしまったわけだが、それでいてインタビューには、不思議と現在の日本を予見したかのような発言があちこちに出てくる。三島の憲法観は、改憲が論議されるいまだからこそあらためて顧みられるべきだし、60年安保のときのデモを評しての《一人一人が言っている「民主主義」という意味がみんな違う》《言葉がこんなに多義的に使われたら、文学なんて成り立たないですよ》という発言は、まるでいまのSNSにおける言葉のすれ違いを思い起こさせる。

そのなかでとくに私が面白かったのは、三島がマスコミとの関係について語った以下の発言だ。三島が映画に出演したり自ら監督したり、あるいは雑誌に自らのヌード写真を発表したりと、たびたびマスコミをにぎわしていたことを思えば、なおさら興味深い。

《今の情報化社会の中で人間が生きていくには、とにかくいろんなものを情報化社会に売らなきゃならないと思うんですよ。我々芸術家は、ボードレールが言ったようにプロスティチュートですよ。我々は肉体を売らなきゃならない。(中略)僕は、本質的なものは売っていないつもりですよ、本当のものは。例えば女郎が好きな男にしか許さないのと同じで、僕はマスコミに決して唇だけは許していないです。だから、みんな僕の体を買っているだけです。それはプロスティチュートの宿命です》

これを読むと、三島は一種のアイドルだったのではないかという気がしてくる。元SMAPの稲垣吾郎にも共感するところがあるのではないだろうか。
(近藤正高)