本日6日より、いよいよ、「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案が衆院本会議で審議入りする。

 与党は問題だらけのこの法案を、一部ではわずか30時間程度で審議を終わらせ5月中の成立を目指しているとも報じられ、おそらく与党は今回もいつもの通りまともな議論もしないまま強行採決に踏み切るつもりなのだろう。

「テロ対策」などと言われると、「まあ、テロ対策は必要かも......」とだまされる人もいるかもしれないが、そんなものは建前に過ぎず、安倍政権が目論む本質は、「治安維持法の復活」でしかない。「現代の治安維持法」とも評されるこの「共謀罪」法案は、国家権力が恣意的な解釈でいくらでも市民の自由を奪い去ることのできる可能性を孕んだ危険な法律だ。

 それがいかに恐ろしいものであるかを知るために、過去に治安維持法がもたらした恐怖を振り返ってみたい。

『蟹工船』で知られるプロレタリア文学の代表的な作家・小林多喜二は、治安維持法によって命を奪われた作家であることはよく知られている。

 彼は、治安維持法により逮捕された人間に対し特高警察が加えた暴行を告発した『一九二八年三月十五日』を「戦旗」に発表したことがきっかけで小説家として本格的に世に知られるようになった。しかし、結果的には、この作品の描写が特高の怒りを買ったことで後に逮捕され、1933年2月20日、取り調べ中の拷問により29歳の若さでこの世を去ることになる。


 いまこの国はその恐怖の法律を復活させようとしている。この状況を見過ごしていいのか。「共謀罪」の成立がどれだけ恐ろしいことか認識するためにも、本稿ではその『一九二八年三月十五日』をご紹介したい。ちなみに、『一九二八年三月十五日』の初出原稿は大量の伏せ字と削除文を含んでいるため、本稿で引用するのは、それらをすべて復元させたうえ現在の仮名遣いに改めた2003年に岩波書店から刊行されたものに統一した。

 小林多喜二のデビュー作『一九二八年三月十五日』は、1928年3月15日に日本共産党関係者など1000人以上が治安維持法で一斉に検挙された「三・一五事件」について描かれた小説。このなかでは、何の容疑なのかもまともに教えられぬまま強引に逮捕され、そして、逮捕した人々に対して苛烈な暴力が加えられている様子を生々しい筆致で描いている。


 小説はまず、日本共産党や労働農民党などに関わった人々が一斉検挙されるところから始まる。そこで恐ろしいのは、逮捕されるにあたり、なぜ逮捕されるのかという理由が警察からいっさい告げられないというところだ。

 労働組合の事務所にサーベルを所持した警察官がどかどかと入り込み、事務所にいた人間を検挙していくシーンでは、「馬鹿野郎、理由を云え!」と言った人間に対し、「行けば分る」の一点張りで、なぜ引っ張られなければならないのかをまったく説明されない。さらに、その状況に「人権蹂躙だ!」と主張した組合員はなんと殴りつけられてしまう。警察による拡大解釈が可能な現在の「共謀罪」でも、これとまったく同じ状況が起きる可能性は十二分にある。

 ただ、このぐらいの理不尽さは『一九二八年三月十五日』においてはまだ序の口。
小説はここからさらに恐ろしい展開を見せる。運動を根絶やしにするため、取り調べに協力しない人間に対して苛烈な暴力が加えられていくのだ。その描写の数々はまるで拷問の見本市のようである。

〈渡は裸にされると、いきなりものもいわないで、後から竹刀でたたきつけられた。力一杯になぐりつけるので、竹刀がビュ、ビュッとうなって、その度に先がしのり返った。彼はウン、ウンと、身体の外面に力を出して、それに堪えた。
それが三十分も続いた時、彼は床の上へ、火にかざしたするめのようにひねくりかえっていた。最後の一撃(?)がウムと身体にこたえた。彼は毒を食った犬のように手と足を硬直さして、空へのばした。ブルブルっと、けいれんした。そして、次に彼は気を失っていた〉

 拷問は単純に殴る蹴るの暴行だけではない。こんな危険な手段まで用いられる。


〈そのすぐ後で取調べられた鈴本の場合なども、同じ手だった。彼は或る意味でいえば、もっと危い拷問をうけた。彼はなぐられも、蹴られもしなかったが、ただ八回も(八回も!)続け様に窒息させられた事だった。初めから終りまで警察医が(!)彼の手首を握って、脈搏をしらべていた。首を締められて気絶する。すぐ息をふき返えさせ、一分も時間を置かずにまた窒息させ、息をふきかえさせ、また......。
それを八回続けた。八回目には鈴本はすっかり酔払い切った人のように、フラ、フラになっていた。彼は自分の頭があるのか、無いのかしびれ切って分らなかった〉

 警察医がついているとはいえ、こんな危険な拷問を加えるというのは、最悪、取り調べ中に相手が死亡したとしても、適当に隠ぺいすればそれで話は終わるというぐらいに認識していたということの裏返しでもあるのだろう。また、『一九二八年三月十五日』には、さらに、こんな拷問器具が用いられる描写まで登場する。

〈取調室の天井を渡っている梁に滑車がついていて、それの両方にロープが下がっていた。竜吉はその一端に両足を結びつけられると、逆さに吊し上げられた。それから「どうつき」のように床に頭をどしんどしんと打ちつけた。そのたびに堰口を破った滝のように、血が頭一杯にあふれるほど下がった。彼の頭、顔は文字通り火の玉になった。眼は真赤にふくれ上がって、飛び出した。
「助けてくれ!」彼が叫んだ。
 それが終ると、熱湯に手をつッこませた〉

 こんな拷問を一度でも加えられれば、二度目以降は取り調べの声がかかっただけでもう気が狂いそうになることは容易に想像できる。実際、そうなってしまった人もいる。

〈演武場では、斎藤が拷問されたので気が狂いかけている、といっていた。それは、斎藤が取調べられて「お定まり」の拷問が始まろうとしたとき、突然「ワッ!!」と立ち上ると、彼は室の中を手と足と胴を一杯に振って、「ワアーー、ワアーー、ワアーーッ!!」と大声で叫びながら走り出した。巡査らは始め気をとられて、棒杭のようにつッ立っていた。皆は変な不気味を感じた。拷問、それが頭に来た瞬間、カアッとのぼせたのだ、気が狂ったのだ、──そう思うと、誰も手を出せなかった〉

 活字を通して読むだけでも気が滅入ってくるような描写の数々だが、さらに恐ろしいのは、このような現状について、メディアを通して伝えることが許されないということだ。

 前述の通り、『一九二八年三月十五日』が「戦旗」に掲載される際は、検閲にかかりそうなところは事前に伏せ字にしたり、削除したりしていたのにも関わらず、当局は「戦旗」を発売禁止にした。また、その後、単行本とした発行された際にも発売禁止の処分を受けている。

 ここで出てくる登場人物たちはおおよそ実在のモデルがおり、当時、小林多喜二が暮らしていた小樽で実際に見聞きしたものが創作の動機となった。「処女作の頃を想う」という文章のなかで彼はこのように綴っている。

〈雪に埋もれた人口十五万に満たない北の国の小さい街から、二百人近くの労働者、学生、組合員が警察にくくり込まれる。この街にとっても、それはまた只事ではなかった。
 しかも、警察の中でそれら同志に加えられている半植民地的な拷問が、いかに残忍きわまるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎悪をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示を受けたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたたきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った〉

 特高警察の拷問がいかに残忍なものか、それを書いて大衆に伝えなければならない。その義憤が作家・小林多喜二を生んだのだが、同時にそれが原因で彼は若くして命を奪われることになる。権力を批判する小説を書いただけで逮捕され、拷問の果てに虐殺されたのだ。恐ろしい話である。

 ちなみに、小林多喜二が亡くなった後、警察はその死因を心臓麻痺と発表したが、その死体は拷問の果てに全身が腫れ上がっており、特に下半身は真っ黒に変色していたと伝えられている。警察発表が嘘なのは誰の目にも明らかだった。しかし、どの病院も特高警察に目をつけられるのを嫌がって解剖を拒否している。

『一九二八年三月十五日』には、小林多喜二の最期を予見させるようなこんな一文も含まれていた。

〈竜吉は警察で非道い拷問をされた結果「殺された」幾人もの同士を知っていた。直接には自分の周囲に、それから新聞や雑誌で。それらが惨めな死体になって引渡されるとき、警察では、その男が「自殺」したとか、きまってそういった。「そんなはず」の絶対にない事が分っていても、しかしそれでは何処へ訴えてよかったか?──裁判所? だが、外見はどうあろうと、それだって警察とすっかりグルになってるではないか。警察の内では何をされても、だからどうにも出来なかった〉

 繰り返すが、これは20世紀初頭に起こった過去の出来事であると看過していい問題ではない。これと同じことが、いま現在この国で繰り返されようとしているのだ。

 17年4月5日の朝日新聞で、治安維持法や特高警察について研究している荻野富士夫・小樽商科大特任教授は「共謀罪」についてこのように警鐘を鳴らしている。

「組織的犯罪集団の認定や正当団体の犯罪集団への移行は、いずれも警察側が判断し、拡大解釈の危険性が大いに残る。恣意的な運用ができた『目的遂行罪』を武器に、特高警察が治安維持法の適用を際限なく広げていった過去を想起すべきだ」

 一度「共謀罪」が成立してしまえば、それを恣意的に運用する権力に対し、市民は抗う術をもたない。それは歴史が証明する通りである。同じ過ちを繰り返さぬためにも、「共謀罪」には「反対」の声をあげ続けていく必要がある。
(編集部)