80年代を席巻したバンドグループ「チェッカーズ」。30歳以下の若者はピンとこないかもしれないが、当時はアイドル的人気があり、ある種の社会現象を引き起こすほどのカリスマ性のあるバンドであった。

そんなチェッカーズの解散理由は、幼稚園時代からの幼なじみである藤井フミヤと高杢禎彦の確執が原因と言われている。解散に至った真相とは?絶頂期の活躍から解散に至るまでの経緯を振り返る。

チェッカーズ、久留米市で結成


7人グループの「チェッカーズ」は藤井フミヤと武内亨により、福岡県久留米市にて結成される。藤井フミヤはボーカルを、武内亨はリーダー兼ギターを担当。他5人をメンバーに加え、7人で活動を始める。メンバーは以下のとおり。高杢禎彦 (サイドボーカルほか)、鶴久政治 (サイドボーカルほか)、大土井裕二 (ベース/サブリーダー)、徳永善也 (ドラムス)、藤井尚之 (サックスほか)。


『涙のリクエスト』でスターダムに


1983年『ギザギザハートの子守唄』でデビュー。これまでにはない曲調とメンバーの不良っぽい雰囲気に注目が集まった。そして翌年リリースした『涙のリクエスト』のヒットにより、チェッカーズは一躍"時の人"に。
オリコンなどの音楽チャートトップ10内に3曲が同時にランクインするなど、瞬く間にスターの仲間入り。メンバーが着用していたチェック柄の衣装や藤井フミヤの特徴的な髪型は、ファッションにも多大な影響を与えた。

映画にも チェッカーズのアイドル的人気


1984年第35回紅白歌合戦に初出場して以来9年連続で出演、1985年にはメンバー主演の映画『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』でスクリーンデビューするなど、その人気は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。ちなみに、チェッカーズ主演映画は1986年『SONG FOR U.S.A』を含めなんと2作が東宝系列で公開されている。
リリースする曲は次々とヒットし、『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』ではオリコンでついに年間1位を記録。
初のメンバーオリジナル曲『NANA』(作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之)がリリースされる頃まで、爆発的な人気が続くことになる。

解散へ近づく…ソロ活動が本格化したチェッカーズ


全曲メンバーオリジナルのアルバム『GO』が発売される頃には、メンバーの中からソロ活動を始める者が現れる。藤井フミヤの弟・尚之のソロデビューを皮切りに、鶴久、高杢もソロ活動をスタート。『NANA』までは与えられた曲でパフォーマンスを披露していたが、これによってメンバーの中に創作意欲や独立心が高まったのかもしれない。
この方針転換によって、皮肉にも解散へのカウントダウンが始った。同時期に藤井フミヤも初のソロシングルをリリースするものの、「チェッカーズ在籍中はソロ活動をしない」という約束のため、ソロ活動はしていない。

藤井フミヤを筆頭に結婚ラッシュ


世の中の女性ファンに衝撃を与えたのが、藤井フミヤの結婚である。1990年、中学の同級生と長い付き合いの末に結婚。
当時最も人気の高かったフミヤの結婚は、SMAP木村拓哉の結婚にも匹敵するほどで、祝福するよりもショックを受けて落ち込む女性が数多く出現。
また、それに続くかのように4人のメンバーが相次いで結婚、幸せな家庭を築く一方で、グループとしての存続は難しくなり、メンバーはそれぞれの路を歩むことに。

1992年、チェッカーズの解散


1992年10月に解散を発表後、大晦日の第43回NHK紅白歌合戦出演を最後に解散。「フェアウエル・メドレー」と題し、デビュー曲ほか5曲をメドレーで披露。ちなみに、チェッカーズの最終ステージとなった今回の紅白には、SMAPが2度目の出演を果たしている。
解散の理由は様々言われているが、主たるものは藤井フミヤと高杢との確執にあるようだ。藤井フミヤの「解散宣言」に最も憤慨したのは高杢だそうで、後に出版した手記で金銭的問題など、当時のいざこざを語っている。
解散を支持する派(藤井兄弟、武内、大土井)としない派(高杢、鶴久、徳永)に分かれ、後まで対立が続くことに……

メンバーの死で露わになった対立の深さ


この対立が露わになったのがドラムス徳永の死。この死去に際して、藤井フミヤらが「送る会」を提案したのだが、高杢らは発起人として参加することを拒否したのだ。これは、ファンにとっては少し寂しい結果であった。
幼なじみの二人は今なお仲違いをしたままで、再結成の噂は出るものの実現はしていない。いつか再びあの頃の輝きを見てみたいものだ。
(chensuik)
EARLY SINGLES