プロ野球選手の有給休暇。

ヤクルトの抑え投手オンドルセクが聞き慣れない言葉とともに日本を去った。
6月26日の中日戦で3失点を喫した直後にベンチで真中監督ら首脳陣に八つ当たり。
翌日に謝罪して、その後2軍練習に合流も7月のオールスターブレイク中に有給休暇を取得し家族とともにさらばニッポン。そのまま東京に戻ってくることはなかった。

これまで幾度となくこの手の助っ人トラブルは起きているが、それだけ異国の地で仕事をするのは大変なことなのである。文化も違えば、言葉も通じない。その昔、ボブ・ホーナーは「地球の裏側にもうひとつのベースボールがあった」と遠回しに日本球界をディスったが一概に彼らだけが悪いとは言い切れないだろう。

と言っても、どう見ても擁護のしようがないクレイジーな事件も過去にはあった。

1998年夏に起こったガルベス事件


1998年夏に起こったガルベス事件である。
96年には16勝を上げ最多勝のタイトルを獲得、一時期巨人のエースとして君臨したカリブの怪人がこの年の7月31日阪神戦(甲子園)で6失点KOを食らい、球審の際どい判定にブチギレ、投手交代を命じられた直後に自軍のベンチ前から審判に向かって怒りのビーンボールを投げつけた。
直撃こそしなかったが思わぬ報復を受けた橘高球審は即刻侮辱行為で退場を命じるも、体重100キロ越えの巨体ガルベスはスタン・ハンセンのように暴れまくり、止めに入ったチームメイト吉原孝介に三沢光晴ばりのエルボーを食らわせ流血騒ぎ。

球審目がけてボールを投げつけるという行為の代償は大きく、セ・リーグからは98年残り全試合の出場停止処分。巨人からは無期限出場停止と罰金4000万円が課せられた。

長嶋茂雄が一目惚れしたガルベス


それまでも判定に対する不満からヒーローインタビューを拒否したりと伏線はあったものの、前代未聞のガルベス事件に最もショックを受けたのは当時の巨人長嶋監督だろう。
この2年前の96年2月12日、巨人のトライアウトのために宮崎キャンプに合流した得体の知れない31歳の大男。

4日後の16日、初めてブルペンで投球を披露すると、見守っていた首脳陣や評論家は息を呑んだ。150キロ近い速球に、高速シンカーとチェンジアップ、そして内角を鋭くえぐる重いシュート。ついでにマイケル・ジョーダンばりの舌だし投法。なんなんだこいつは? 何者だ? 

当時の様子が『Gファイル長嶋茂雄と黒衣の参謀』(武田頼政著)という本に書き残されている。マスコミには懸命に平静を装い「15勝はいけるでしょう」と冷静に手応えを語った長嶋監督だったが、夜になるとミスターはチーム関係者に歓喜の国際電話をかける。
「あれスゲェよ!スゲェやつだよ!もうウチは絶対に必要ですからね!」

トライアウトはすぐ終わると思っていたから下着の替えがないと聞くと「パンツなんか何枚でも用意しますよ!」と笑い飛ばし、ガルベスが宮崎の海で釣りをしたがっていると耳にすれば間髪入れず、「ああ釣り竿、何本でもOKですよ〜」とはしゃいでみせる。
いわゆるひとつの長嶋茂雄の一目惚れだった。

反省の丸刈りをした長嶋茂雄


そんなミスターの恋人のご乱心。2日後にも同カードで大乱闘騒ぎがあり、巨人と阪神の両球団から異例のファンに向けた謝罪文が出され、ついに長嶋監督は反省の丸刈りにして一連の騒動にケジメをつけた。

日本球界を揺るがした1998年のビーンボール。当時、私は大学1年で能天気にバックパッカーとしてタイのビーチを旅行していたが、日本人ツーリストから貰ったスポーツ新聞にデカデカとミスターの坊主頭の写真が載っていてワクワクしたものだ。
もちろんガルベスの暴挙は決して褒められたもんじゃない。
だけど、そこからは嘘のない「ガチ感」が伝わってくる。そのガチ感の象徴が国民的スター長嶋茂雄の坊主頭だったのである。

結局、ガルベスは翌99年に開幕投手を務め、見事1失点完投勝利を飾る精神的タフさを見せたが、2000年限りで退団してひっそりと帰国。NPB通算成績106試合登板、46勝43敗、防御率3.31。まさに記録にも記憶にも残る投手だった。
ちなみにグラウンドでは感情のコントロールが効かなかったガルベスが「カルシウムブソク、シテイマセンカ?」と日本酪農乳業協会CMに出演していたのも、今となっては尊大なオチとして助っ人ファンの間では語り継がられている。

(死亡遊戯)

(参考資料)
Gファイルー長嶋茂雄と黒衣の参謀(文藝春秋/武田頼政著)
週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1998年(ベースボール・マガジン社)