確か野茂英雄ともう1人いたよね。

野球ファンの間では、ドラフト会議の度にそんな会話が交わされる。
あの野茂と並び史上最多タイの8球団から指名された男。90年の小池秀郎(亜細亜大)だ。
大学通算28勝、当時の東都記録シーズン111奪三振を誇る大学No.1サウスポーの小池には西武、広島、近鉄、日本ハム、中日、ヤクルト、ロッテ、阪神の8球団が入札。事前に小池は希望球団を「ヤクルト、西武、巨人」の3球団と表明しており、同時に80年代終盤は暗黒期だった「ロッテ、阪神の2球団だけには絶対に行きたくない」と腹を決めていた。
90年11月24日、ドラフト当日には亜大の大ホールにマスコミや学生たちが集結、完全なお祭り騒ぎとなり、その中心に時折笑みを浮かべる小池がいた。

ロッテに指名された小池秀郎


だが、運命は残酷である。交渉権を獲得したのはよりによって「絶対に行きたくない」ロッテ。

その瞬間、強行指名に成功したロッテ金田正一監督は満面のカネヤンスマイルを浮かべてバンザイ、対照的に表情がこわばり顔面蒼白となった主役は「今は何も言えません…。頭が真っ白です。ロッテの方と会うことはありません」と言葉を絞り出し、その後キャンパス内の広報室に閉じこもり、報道陣の隙を付いて外へ出ると2日間雲隠れ。この時、川崎の自宅ではなく、外部の情報を遮断できる野球部の寮内に避難したという。

前向き発言も 小池秀郎の意外な裏話


ちなみに今となってはあまり語られることはないが、小池は前述の希望3球団以外から指名されても交渉の席につくことを明言していた。
近鉄スカウトと会った時も、もし交渉権を獲得したら再度会うことを約束。他にも「ダイエーは企業として魅力がありますし、大洋も須藤さんが監督になられて随分、イメージがよくなりましたよね」なんて前向きな発言も。

本音を言えばヤクルトだけを逆指名したかったが、「1球団だけ指名するとヘンな噂がたつ恐れがある。おまえはクリーンなイメージを大切にした方がいい」と亜大の矢野総監督から言われ踏みとどまったという。

だが、そう諭した矢野総監督がのちに「12球団の中でもっとも避けたいと思っていた球団」とロッテを猛烈にディスってクリーンなイメージをすっ飛ばしてしまうのだから、皮肉なものである。

生意気なコメントはバブルだったから?


最後まで自らの意志を貫き通した小池秀郎とはどんな若者だったのだろうか? ドラフト直前の『週刊ベースボール』90年12月3日号には小池のこんな発言が掲載されている。
「普通に会社に就職するのでも、まず学生側が会社訪問して話は始まるわけでしょう。逆指名っていうのは、そういうことだと思います」
「プロ? 実力の世界だと思います。そして、お金で評価が決まるところ」

一見生意気で小憎たらしい人生観だが、以前この連載で取り上げた同年オリックス1位指名の長谷川滋利(立命館大)も「オリックス逆指名も就職活動のうち」と同誌で似たようなコメント。

時は1990年、ニッポンが一番元気だったバブル末期だ。野球以外でも稼げる仕事は他にもあったし、現実にドラフト1位候補の大学生投手が野球を捨てて不動産会社に就職するというケースも見られた。しかも大学の同級生たちは、空前の売り手市場と言われた就活で一流企業へと続々と就職を決めていく。

ならばドラフトこそ俺らなりの就活戦線。いい企業(球団)を希望して何が悪い? 恐らく、小池や長谷川の人生観には、バブルど真ん中に大学生活を送ったことが大きく関係しているはずだ。

プロ入り後の小池秀郎


結局、ロッテ1位を拒否して社会人の松下電器に進んだ小池は左肘の故障に苦しむも、2年後の92年に近鉄から単独1位指名を受け、今度はすんなり入団。
5年目の97年には15勝を挙げ最多勝獲得。その後、90年ドラフトで小池に入札していた中日へ移籍、と思ったら2年後には近鉄復帰、さらに現役最終年の05年には新チーム楽天の一員としてプレーする等、激動のプロ12年間だった。
もしも、野茂英雄と同じく8球団から指名された秋、あのままロッテに入団していたら、その後の野球人生はどうなっていただろうか……? 悔やんでも悔やみきれない運命の1日。

「ドラフトっていうのはクジ。その、たかがクジで、大げさにいえば一生が決まってしまう」
21歳の小池の言葉だ。今思えば、不可解とも思える頑な入団拒否は「たかがクジに人生を決められたくない」という不条理なドラフト制度への精一杯の反抗だったのかもしれない。

(死亡遊戯)

(参考資料)
週刊ベースボール(ベースボール・マガジン社)90年12月3日号、12月10日号