現在、絶賛放送中の大河ドラマ『真田丸』。歴史ファンからも中々の高い評価を受けているそうだ。
さて、この『真田丸』で主人公・真田信繁のラスボスとして対峙する相手は、あの徳川家康である。

【よく知られた徳川家康の脱糞エピソード】


ところでこの家康、一部ネットでは「戦場脱糞二キ」という不名誉なあだ名をつけられている。このような酷いあだ名をつけられた背景には、三方ヶ原の戦いでのこんな逸話からだ。
三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍勢に大敗した家康。武田軍に対する恐怖のあまり、馬上で脱糞してしまう。浜松城について馬から下りた時に家臣の大久保忠世に発見され、からかわれてしまう。これに対して家康は「これは焼き味噌じゃ!」と言い訳するのだった……。


【徳川家康のエピソード 原文を読んでみると…】


しかし、実は家康は脱糞していなかったとの見方が強いのだ。
第11代徳川将軍の家斉の命によって作られた「改正三河後風土記」(「三河後風土記」を改編。1837年に完成)の13巻によると、次のように書かれている。

(原文)
「遠州一言坂軍の事」
原書に大久保忠佐神君浜松へ御帰城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ、糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよしをしるす。此日御出馬なければ逃給ふ事あるべきにあらず。是等皆妄説なる故に削り去りぬ。

(口語訳)
「一言坂の戦いの事」
原書(「三河後風土記」)には、大久保忠佐が家康帰城の際、「(家康が乗った)馬の鞍壺に糞があるぞ。
糞を漏らして逃げてこられたのか」と罵倒したことを記している。しかしこの日には、家康は出馬しなかったので、逃げなさることはなかったはず。だからこれらは妄言であるため、削除する。

【嘘の記述が広まってしまった!?】


これらのことから考えると、家康脱糞ネタの出所となったのは「三河後風土記」(実際に「三河後風土記」以前の文献では家康の脱糞について書かれたものはない)であるが、ここに書かれた内容は真実ではなかったということが読み取れる。
しかし、この「三河後風土記」で書かれていた「家康が脱糞しながら逃げ帰り、大久保忠世がそれを馬鹿にした」という誤りの情報だけが、世間に浸透してしまったのではないだろうか。

さらに付け加えると、「改正三河後風土記」の「遠州一言坂軍(一言坂の戦い)の事」という章に、該当する記述が含まれている。
一言坂の戦いとは三方ヶ原の戦いの前哨戦のこと。
つまり元ネタとなった話も、三方ヶ原の戦いでの出来事ではないことが分かる。
話が回りまわって、三方ヶ原の戦いで家康が漏らしたことになったのだろう。

【「しかみ像」と三方ヶ原の戦いは関係なし!?】


そして三方ヶ原の戦いの後、敗北を生涯忘れないために家康が描かせたとされている「しかみ像」も、実は三方ヶ原の戦いと関係がなかったのではという意見がある。

2015年10月24日付の読売新聞によると、徳川美術館の学芸員である原史彦氏がこんな指摘をしている。
しかみ像と三方ヶ原を最初に結びつけたのは、徳川美術館を創設した19代の徳川義親であり、美術館創設の翌年に地元新聞の対談で語ったことがきっかけだった。そして1972年に徳川美術館の収蔵品図録にて、家康が自ら描かせて生涯座右を離さなかったと記載されたことで、現在のイメージになったとのことだ。

記事内では、「義親氏は開館したばかりの美術館を宣伝するキャッチコピーのような感じで、サービス精神から言ったのでは。それが様々なメディアで流れることで定説化した」という趣旨の原氏のコメントが紹介されている。

このように現在まで広く言い伝えられているエピソードもよくよく調べてみると、眉唾な話であることが分かる。とはいえ、これらの説も新たな書状が発見されれば、簡単に覆ってしまうこともよくある。しかしそれこそが、歴史学の魅力とも言えるのではないだろうか。
(真田時宗)

画像:「徳川家康大全」より