2015年5月2日。47戦無敗のメイウェザーと6階級制覇のパッキャオが対決した、世界ウエルター級王座統一戦は、まだ記憶に新しいところだ。
今年を象徴するドリームマッチであり、ボクシング史に名を刻む伝説となった。だが、実は過去に「辰吉丈一郎VS薬師寺保栄」という"世紀の一戦"が、日本で行われたことがあった。

【辰吉丈一郎と薬師寺保栄】


1990年代に入ったころの日本ボクシング界は、辰吉フィーバーで揺れていた。プロ4戦目にして日本バンダム級王座を獲得すると、8戦目で世界王座奪取に成功(1992年)。これは、具志堅用高が保持していた9戦目を抜き、当時の国内最短新記録でもある。弱冠21歳にして無敗のまま世界の頂点に上りつめた辰吉の出現は、日本に新たな「国民的スター」の誕生をもたらした。

一方の薬師寺は、辰吉より2歳上であり、プロデビューも辰吉より早い。
しかし、日本バンダム級王座の獲得まで15戦、世界王座も23戦を擁したことから、辰吉とは対照的な存在。両者は同じ階級同士のチャンピオンだったこともあり、何かと比較されることが多かった。

【辰吉を引退の危機に追い込んだ網膜剥離】


辰吉は初防衛となった対ラバナレス戦(1992年)で、プロ転向後初の黒星を喫する。しかし、翌年の1993年には、ラバナレスとのリベンジ戦を制し、暫定王座に返り咲く。ところが、フルラウンドに渡る死闘だったこともあり、辰吉は網膜剥離を発症することに。
当時の日本ボクシングコミッションのルールでは、網膜剥離にかかったプロボクサーは、引退することが規定だった(後に改正)。辰吉の手術は成功したものの、ルール上は日本での試合を認められず、暫定王座の返上も余儀なくされた。
辰吉は引退の危機に瀕していたのだ。

【「世紀の一戦」実現の背景】


その後、辰吉は日本ボクシングコミッションの管轄ではない国外にて復帰戦を行う。結果は、3ラウンドKO勝利という圧巻の復活劇であった。それと同時にWBC世界バンダム級の暫定王座ベルトが与えられたほか、日本ボクシングコミッションの特例により現役続行も許可された。
一方、その時期のWBC世界バンダム級の正規チャンピオンは薬師寺であった。そのため、暫定(辰吉)と正規(薬師寺)という2人の日本人チャンピオンが混在する状況であり、統一戦の実現が叫ばれていた。

辰吉VS薬師寺という「世紀の一戦」が正式に決まると、一瞬にして世間の関心の的となった。
「史上初の日本人同士による王座統一戦」をはじめ、高額に跳ね上がったファイトマネー、興行権をめぐる両陣営による争い、そして王者同士による舌戦など、試合開始前から異様な雰囲気をみせていた。

【1994年12月4日 WBC世界バンタム級王座統一戦】


そして迎えた1994年12月4日。「世紀の一戦」は、序盤から壮絶な打ち合いが続く。ジャブ中心の正統派を貫くアウトボクサーの薬師寺に対し、辰吉はスピードを生かしたボクサーファイター。薬師寺は弱点である辰吉の左眼を目がけ、コツコツとジャブを連発する一方、辰吉は網膜剥離を発症した左眼をかばうことなく、ノーガードで応戦していた。
しかし、最初に眼の上をカットしたのは薬師寺だった。4ラウンドに入ると、薬師寺の右眼の上から流血が見られ、改めて辰吉はハードパンチャーとしての存在感を見せつけた。
だが、それも束の間。今度は辰吉も左眼をカットすることとなり、中盤以降は流血戦が繰り広げられていく。
終盤に突入すると、辰吉の流血は増して左眼はほぼ見えていない状態に。にも関わらず、ジャブを浴びながらも突進する辰吉。両者は壮絶な殴り合いを見せた。

【激闘の結果、瞬間最高視聴率65%を超える】


決着は最終12ラウンドまでもつれた末、判定となった。
試合は辰吉114ポイント、薬師寺115ポイントという僅差の結果で薬師寺が勝利し、世紀の一戦は幕を閉じた。
試合後、薬師寺を担ぎ上げ勝者を讃えた辰吉の姿は、今もファンの間では語り草となっている。

視聴率にもこの一戦の注目度が現れ、関東で39.4%、辰吉の地元である大阪で43.8%、薬師寺の地元の名古屋で52.2%、そして瞬間最高視聴率だと65%を超えたともいわれている。
今後、日本ボクシングでここまで注目を集める試合を見ることはできるのだろうか。
(ぶざりあんがんこ)
週刊ゴング増刊号 ボクシング写真画報 薬師寺-辰吉戦特報号 (ワールドボクシング)