前回の本コラムでは、小学生時代のウチのクラスの女子たちが夢中になっていた「キューピッドさん」の記憶を紹介した。いわゆる「文字盤」に類するものを使用せず、大きなハートをひとつだけ描き込んだ紙を前に、2人で1本の鉛筆をにぎって行う奇妙な儀式だ。
あれはウチのクラスだけで流行っていたローカルな「キューピッドさん」だったのだろうか?……というのが僕にとっては長らく謎だったのだが、先ごろ、この積年の疑問がアッサリ解決してしまった。
古書店で『キューピッドさんの秘密』(マーク・矢崎著/二見書房サラブレッド・ブックス/1989年)という、そのものズバリの新書を発見してしまったのである(笑)。
こんな本が出ていたことなどまったく知らなかったし、著者のマーク・矢崎氏は『マイバースデー』(実業之日本社が1979年に創刊した女の子向け「愛と占いの情報誌」)で読者相談コーナー(もちろんオカルト的案件を解決するコーナーである)を担当していた人物で、そのスジの元・女の子たちにとっては「キューピッドさん」などの「恋占い的降霊術」分野(どんな分野だ?)の第一人者である……なんてこともまったく知らなかった。
『マイバースデー』については中学生時代にクラスの女子たちが読んでいたのを横目で見てはいたのだが、同時代に同じようなオカルトネタにうつつを抜かしていても、やはり女子文化と男子文化の間には高い高い壁があるのだなぁ、とあらためて痛感してしまう。
それはともかくとして、この本によればウチのクラスで流行していた「キューピッドさん」は、やはり正真正銘の「キューピッドさん」なのだそうだ。あれこそが正統派というか、原初形態の「キューピッドさん」だったらしい。
この初期型「キューピッドさん」は全国の学校で「コックリさん禁止令」が発令された直後、それに抗う形で女子たちが考案した新式の「降霊術」として普及、「憑依されたり呪われたりする心配のない安全な儀式」としてブーム化したという。このあたりの記述も僕の記憶と一致する。
ハタで見ていただけではまったく意味不明だった儀式の内容も、本書のおかげで明らかになった。地域によって若干の違いはあったが、おおよそ以下のようなものだったようだ。
1.白い紙に赤いペンか赤鉛筆で大きなハートを描く。
2.「降霊」を行う2人が紙をはさんで向かい合って座り、互いの右手の指をからませるようにして1本の鉛筆を握る。
3.その鉛筆の先をハートの中心に据え、「降霊者」は目を閉じ、声を合わせて「キューピッドさま、おいでください。
4.鉛筆が動きだして大きな円を描くようになったら(なるのか?)、「降霊者」は目を開き、「キューピッドさま、おしずまりください」と唱え、鉛筆をハートの中心に戻す。
この段階で「キューピッドさん」が「降りた」、つまり「降霊」が完了したことになるわけだ。
5.ここから「霊」とのコミュニケーションが開始されるが、最初は必ず「キューピッドさま、おたずねします。あなたのお名前をお教えください」と質問し、降りた「霊」の正体を見極める。
この「見極め」の方法の詳細が不明なのだが(というか、それぞれのケースで判断するしかないらしい)、「悪霊」的なものが召喚されると鉛筆は不穏・粗暴な動きをするようだ。
6.あとは任意に好きな質問をしていく。質問の前には必ず「キューピッドさま、おたずねします」というフレーズを付加する。
「キューピッドさま、おたずねします。クラスの伊藤くんはカオリちゃんのことが好きですか?」といった形で問いかけるわけだ。
7.質問に応じて鉛筆は動く(ことになっている)が、その動きや意味の取り方に特に決まりはなく、ケース・バイ・ケースで「降霊者」自身が判断する。
8.すべての質問が終わったら「キューピッドさま、ありがとうございました。どうぞお戻りください」と呪文を唱える。鉛筆がハートの中心からしばらく動かなくなったら「キューピッドさん」が「お戻りになった」証拠なので、鉛筆から手を離し、儀式終了となる。
「自動筆記」と「ちょっとだけ危ない」魅力
以上の「キューピッドさん」の儀式のスタイルやルールには、ある種の子どもっぽいご都合主義や、いい加減かつ曖昧な部分が多分にあるものの、全体としては非常によくできた「降霊術」だと思う。こうした近代的「降霊術」のルーツであるテーブルターニングの方向へ「先祖返り」したかのようで、「文字盤」を使用する簡易でシステマチックな「コックリさん」よりも自由度が高く、変な言い方だが「降霊術らしさ」が豊かに含まれている。「霊媒」的な「読み」のスキルを必要するという意味でも、「コックリさん」よりも「本格的」だ。
こうしたルールは小中学生女子たちの間で自然発生的に考案され、次第に定型化していったものらしいが、それにしては「降霊術」の本質(?)が見事に押さえられていることに驚いてしまう。自然発生的だったからこそ、人が「降霊術」というものに求める要素を過不足なく反映できた、ということなのかも知れないが……。
おもしろいのは、「キューピッドさん」はあくまでも「憑依されたり呪われたりする心配のない安全な儀式」であり、「コックリさん禁止令」以降、どうしてもそういう「安全」な代替物が必要だったからこそ考案されたものであるにもかかわらず、やはり「悪霊が降りることもある」とか「タブーを犯すと危険」といったリスクが設定されていることだ。
だとしたら「ぜんぜん安全じゃないじゃん!」とツッコみたくなるところなのだが、しかし、これこそがオカルティックな遊戯の、というより、そもそも「神仏信仰」といったもの全般の必須事項となる部分なのだろう。「危険」は効力・効能を担保するものであり、つまりは「祟らない神」は無力なのだ。「恐怖」や「畏怖」の要素をとっぱらって完全にリスクをゼロにしてしまえば、「キューピッドさん」は遊戯としてもまったく魅力のないものに成り果てていただろう。
うちのクラスの女子たちの間でよく起こった「憑依現象」、つまり鉛筆を握った2人の「降霊者」の腕の動きが止まらなくなり、紙の上にメチャメチャな線を書きなぐり続けるという茶番は、「悪霊が降りてしまった」もしくは「何らかの要因でキューピッドさんの機嫌を損ねてしまった」という失敗の結果だったらしい。
今思い出しても「よくやるよ」という感じだが、この儀式のポイントは「2人の人間による自動筆記」という部分で、ここには確かに一種の危うさというか、「恐怖」が入り込む余地がある。3人で10円玉を操作する「コックリさん」よりも作業的にシンプルなだけに、無意識的にせよ、意識的にせよ、「霊の暴走」は起こりやすかったし、「起こしやすかった」のだろう。身も蓋もない言い方をしてしまえば、この種のオカルト遊戯には必ず何らかの「アクシデント」の表現が必要であり、それが周期的に仲間内でなされることによって、ほどよい「恐怖」が共有され、つまりは「信仰」も共有され続ける、ということだったのだと思う。
というわけで、この話題も次回で最終回。「キューピッドさん」を皮切りに続々登場した女子的「脱法コックリさん」の数々を紹介しつつ、それらを生み出した70年代オカルト女子のメンタリティなどについても回顧してみたい。
初見健一「昭和こどもオカルト回顧録」
◆第12回 エンゼルさん、キューピッドさん、星の王子さま……「脱法コックリさん」の顛末
◆第11回 爆発的ブームとなった「コックリさん」
◆第10回 異才シェイヴァーの見たレムリアとアトランティスの夢
◆第9回 地底人の「恐怖」の源泉「シェイヴァー・ミステリー」
◆第8回 ノンフィクション「地球空洞説」の系譜
◆第7回 ウルトラマンからスノーデンへ!忍び寄る「地底」世界
◆第6回 謎のオカルトグッズ「ミステリーファインダー」
◆第5回 東村山水道局の「ダウジング事件」
◆第4回 僕らのオカルト感性を覚醒させた「ダウジング」
◆第3回 70年代「こどもオカルト」の源流をめぐって
◆第2回 消えてしまった僕らの四次元2
◆第1回 消えてしまった僕らの四次元1
関連リンク
初見健一「東京レトロスペクティブ」
文=初見健一
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