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村野藤吾の傑作・広島「世界平和記念聖堂」。洋の東西も時代も超えた聖なる美の建築

2017年8月6日 11時00分 (2017年8月14日 10時54分 更新)

自らも被爆した神父の、強い想いから発した聖堂建設への道


カトリック広島司教区の幟町教会は、原爆の爆心地から直線距離にして1キロ強しか離れていない。1945年8月6日午前8時15分、この場所には4人の神父と、伝道師や神学生、保母たちなどがいた。司祭館は関東大震災後の上智大学再建のために招聘されたイグナチオ・グロッパー修道士が設計したもので、木造ながら爆風に耐え、全員が奇跡的に助かった。しかしその後に巻き起こった火災が、あたり一帯を焼き尽くしてしまう。

当時の主任司祭フーゴ・ラサール神父は、被爆で大けがを負ったにもかかわらず、同年12月20日、周囲の反対を押し切って、郊外の避難先から教会に舞い戻る。同伴者はフーベルト・チースリク神父のみ。2人の神父はトタン板でつくった3畳ほどのバラックを聖堂兼住居とし、そこで被爆後初めてのクリスマスミサを執り行った。チースリク神父の回想によれば、ラサール神父はこの頃から早くも、聖堂再建を目指して奔走していたという。翌1946年にはローマで当時の教皇ピオ12世に謁見し、聖堂建設への祝福を授かった。

「世界平和記念聖堂」が一応の完成を見るまでには、それから8年の歳月が必要だった。



物議をかもした“1等なし”の設計競技、外観デザインはやり直しの連続


「世界平和記念聖堂」の設計案ははじめ、1948年4月6日付けの朝日新聞紙上で公募され、6月10日に締め切られた。募集規定には「モダン、日本的、宗教的、記念的という要求を調和させる事」とある。

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