0

和歌山市、戦火で焼失した武家屋敷の街並み。唯一残る「長屋門」を訪ねた

2018年3月4日 11時00分 (2018年3月12日 10時55分 更新)

戦火に焼けた和歌山市に残る「長屋門」


和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりである。創建にかかわったのは、築城の名人と謳われた藤堂高虎。天守閣を目指し歩いてみると、素朴ながら壮大な「野面積み」の石垣に圧倒される。そう、以前本サイトでも紹介した穴太衆の技がここ和歌山城でも生きていた(「信長も重用した伝説の石工『穴太衆』―現代に奇蹟の技をつなぐ“超”技術集団とは?」)。創建期は不明だが、浅野期以降、穴太が和歌山城の普請に携わったことは資料上確認できる。

壮麗なその城は、その後関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長の入城を経て、徳川家康の10男・頼宣(よりのぶ)が55万5千石を奉じて入城すると、徳川御三家として繁栄の歴史を刻んできた。

徳川御三家の名に相応しく、当時は城下町にも見事な武家屋敷が並んでいたという。現在和歌山市役所のビルが建つ城の北堀に面した通りには、大身の藩士屋敷が建ち並んでいた。これが現存していれば、どれだけ壮麗な景観を残していたことだろう。残念ながら戦時中に、城の天守閣をはじめ、城下町の風情を残す建物はほとんどが焼失してしまっている。

そんな中2017年に、和歌山市内で現存する、ほとんど唯一と言える武家屋敷が移築され和歌山市指定文化財となった。「旧大村家住宅長屋門」である。不勉強ながら初めて聞いた「長屋門」という名称。果たしてどのような建造物なのだろうか。内部を拝見しながら取材をさせてもらった。



屋敷の外壁と長屋が一体に?


「長屋門」とは、江戸時代に多く建てられた建造物。

注: この記事は配信日から2週間以上経過した記事です。記事内容が現在の状況と異なる場合もありますのでご了承ください。

コメントするニャ!
※絵文字使えないニャ!