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カシオ創業者・樫尾忠雄が35年前に語った「若い従業員を伸ばす目標の立て方」

2018年1月13日 07時00分

 戦後、多くの分野でイノベーションを起こしたメーカー・カシオ計算機にあったのは、徹底した現場主義と技術重視の経営、そして四人の兄弟の絆だった。創業者である樫尾忠雄社長(当時)が35年前のインタビューで語った内容は、今日にも通じる金言ばかりだった。


 聞き手は、後に田中角栄の秘書も務めた麓邦明氏(評論家)。


 ジャーナリスト・大西康之氏の 解説付き 。


出典:「諸君!」1983年7月号「半導体は神サマです」


◆ ◆ ◆



 麓 男が外に出ると7人の敵がいる、といいますが、カシオさんの場合、商品が多岐にわたっているために、「電卓はシャープ、楽器はヤマハ、時計はセイコー」というふうに、だいぶいらっしゃるわけですね、敵が(笑)。一つの分野だけでも大変なのに、こんなにライバルがいるとエライことだと思うんですが……。


 樫尾 一つ一つお答えしますとね(笑)、もともとウチは計算機を作る会社として、昭和32年にスタートしたわけで、世界中どこにもなかったリレー式計算機を発売もしましたし、まあ電卓の分野では伝統もある。だから特に意識していないですよ。シャープさんはシャープさんで立派な会社ですし、ともに存在価値があるからこそ発展してるんじゃないですか。


 楽器にしても時計にしても、ライバルといわれるとちょっと違うんですよ。エレクトロニクス技術を応用することによって、一つの楽器で多種類の楽器音を出せるという特長をもつ、今までの自然楽器とはまったく違った楽器を開発したんです。誰しも音楽は好きで、楽器を演奏してみたいという気持はみんな持っているんですね。持っているけど、大人になると、今さら楽器を練習するのは格好が悪いとかなんとかで、弾(ひ)ける人は1割しかいないといわれているんです。だから、あとの9割のうちの何パーセントかの人に使ってもらえるような楽器を、ということで開発したのがカシオトーンでして、ピアノに代表される従来の鍵盤楽器と違う新しい商品なんですね。そういうことでスタートしたところ、たまたまエレクトロニクス技術がさかんになって、相前後して各社から小型電子キーボードが商品として出てきたわけです。発想としてはウチが早いんですよね。


 時計も同じことです。我が社がデジタル時計に参入した昭和49年当時、時計といえばアナログだったんです。ウチがやって初めてデジタルの良さが分かり、ヨソの会社でもやるようになって競合しはじめた。アナログの時計をウチがやったんなら、先輩各社の地場を荒すといわれても仕方ないですけど、そうじゃないわけです。


 麓 先日発表されたポケット・テレビ、これも競合するでしょう、どこかと。


 樫尾 テレビというより、身につける情報機器として利用されると思うんです。これはワイシャツの胸ポケットに入る大きさですから、時々刻々の株価を知りたい人が持ち歩くとか、OA機器の端末として使うとか、いわゆる娯楽番組を楽しむテレビとは異る使われ方をするとみているんですよ。だから、これが多くの人の手にわたれば、番組の傾向も変わってくるかもしれない。


 麓 受信料はどうなるんですかね。


 樫尾 そうなんですよ、ポケット・テレビの記者発表の席でもそれを訊かれましてね、困りました(笑)。



■いつまでもベスト商品と思うな

 麓 いま出てきた商品はみな、碁や剣道でいう「先の先」をとって生まれたものですね。しかし中には「後の先」で、立ち遅れを克服して成功した商品もあるようですが、こういう頑張りの精神みたいなものが社風にあるんですか。


 樫尾 会社として存続してゆくためには、まず消費者に喜ばれるものを作らなきゃいけない。これが会社の存在価値ですね。それと、ヨソの会社でいい商品が出来ると、ウチが同じものを作っても意味がない。つまりその場合は、ウチには存在価値がないわけですね。そうすると、常に先行することが必要になってくる。先行するためには、基礎研究とか市場調査も必要ですけど、一番必要なのは経営者としての責任感なんです。ウチにはこれだけの従業員がいる、取引先がある、ヨソに遅れをとったら企業としての破滅につながる、そうなってはいかん――こういう意志の強さがあれば、常に先頭を切れるものなんです。もちろん、時には追い越されることもありますけど、そこでへたばってしまわないのも、やっぱり責任感だと思いますね。


 よくウチのことをこういわれるんですよ。「あんまり全力疾走ばかりしないで、じっくりやってみてはどうか。ある商品がヒットしたら、それがまだ売れてるのに、次の商品を、これでもかこれでもかと打ってゆく。もったいないじゃないですか」と。しかしウチは社員の54パーセントが技術屋なものですから、次々と消費者に喜ばれるものを出してゆくエンジニア魂みたいなものがあるんです。


 それともう一つ、ウチではあらゆるものについて、2、3カ月も同じだとおかしいと思えといってある。たとえば、自分たちが精魂こめて開発したベストの商品でも、1カ月たち2カ月たつとベストでなくなることもあり得るわけです。商売の上からは、まだ売れるとわかっていても、すでによりよい商品が出来上がっているんだから早く消費者に使ってもらいたい、そういう気持ですね。


■ウチは、安かろう良かろうですよ

 麓 いまのお話にも、カシオの研究開発の秘密というものをうかがえたような気がするんですが、一般の企業では、こういうニーズがあるからそれに応えた商品を作ろうという、いわばニーズ重視型が最近とくに多いんですね。ところがおたくでは、消費者が予想もしなかった商品を開発して、逆に消費者が沸き立つ。電卓がそうでしたよね。いってみれば、つねに技術がニーズに先行している……。


 樫尾 ウチの場合、ちょっと変わってましてね、新製品開発委員会に営業も含めて全部門が出席するんです。そこで営業の意見を聞くことによって消費者のニーズはつかめるし、将来の志向もわかってくる。


 麓 異る分野の人間を何人か集めると、一人の天才を創ることが出来るといいますね。


 樫尾 46年当時、計算機が1台数万円もしたんですが、営業の若い者が言い出したんです。「もしも1万円の計算機が出来れば、いままで事務機として使われていたものが、個人として使ってもらえるだろう。そうなると、需要の裾野が飛躍的に広がるんじゃないか」と。この奇想天外な意見が、営業の願望、夢として全部門の会議に出された。1万円の計算機が実現できるかどうか、営業の人間にはわからないけど、という形で出てきたわけです。


 実際、これを実現するためには、開発、生産、技術と、あらゆる部門で今までの常識を破る創意工夫が必要でした。しかし、普通なら採用されないような意見でも、それを述べる場があった――このへんがヨソと違うところかもしれません。


 麓 「安値商法」のカシオといわれるのも、そういう点にあるんですかね。


 樫尾 よく皆さんから「安い物を出すのがカシオ」と言われるんですけど、誤解を招く言い方でね。消費者は、よりよい物を低価格でと望んでいるんですよ。これを実現するためには、並々ならぬ技術が必要なんですよ。安かろう悪かろうなら誰にでも作れる。しかしウチは、安かろう良かろうですよ。


 麓 技術の勝利というわけですね。


 樫尾 そうなんです。



 麓 町工場から出発したカシオのイメージとちょっと違うなと思ったのは、カシオ本社は設計会社で、部品生産とかアセンブリー(組立て)は外に頼んでいることですね。一貫生産方式は、経営方針としてとっていないんですね。


 樫尾 当初、リレー式計算機の頃、主要部品はウチで作ってたんですが、半導体が使われるようになった時点で、設計は社内で行ない、生産を半導体の専門メーカーにお願いすることにしたわけです。というのは、ウチで使うだけの分を作るよりは、専門のメーカーが量産メリットを生かして作るほうが、安くていい物が作れるんですね。ですから、半導体は日本電気さん、日立さん、東芝さんなどにウチ用の仕様の物を作ってもらう。ただその過程において、機密事項が漏れないかという問題があるわけですが、それはお互いの信頼でとのルールを作ってやっているんです。


 アセンブリーについては、やはり別会社に頼んでいるんですが、これはウチの子会社がほとんどです。管理上の問題でそのほうがいいからなんです。


 麓 自動車産業の場合は、部品を下請けにまかせて、アセンブリーは本社でやる。だから下請け方式とも達うんですね。


 樫尾 むしろ事業部制に近いと考えていただいていいですね。


 ただ私思うのは、ウチの商品を支えているのがエレクトロニクス技術だということですね。すべて半導体を使っている。ほかの業界ですと、こういうものが欲しいなと思っても、出来ない相談というケースがあるんです。ところが半導体はそれが出来る。われわれの夢を叶えてくれるんです。半導体は神様ですよ(笑)。だから、自分たちがカシオを大きくしたなんて傲慢なこと言えない。やっぱり天祐神助としか言わざるを得ないでしょう。


 麓 技術の発展の歴史の中で、半導体のようなものが発明されたというのは、何百年に1回のことかもしれませんわね。カシオはそれにぶつかっちゃった。


 樫尾 そうですね。それと、われわれが32年に仕事を始めた頃、事務の合理化がブームになり始めた。しかも選んだ仕事は計算機だった。もちろん、計算機を選んだところに一つの先見性があったといわれれば、それはそうかも知れないですけど、半導体というものにぶつかり、その半導体が予想もしないような発展を遂げていった……。何度も言いますが、ラッキーだったと言うしかないんです。


■たまたま兄弟だった

 麓 ところで、カシオ計算機といえば樫尾一族というイメージがありまして、事実、長男でいらっしゃる社長を筆頭に、専務に次男の俊雄さん(開発担当)と三男の和雄さん(営業担当)、常務に四男の幸雄さん(技術本部長)の四兄弟がトップにおられ、そしてお父さん(樫尾茂氏)が会長というわけですが、3本の矢ならぬ4本の矢の強味は当然、経営に生かされているんでしょうな。


 樫尾 カシオは技術を持っている、とかの言葉を頂戴するんですけども、事業の基本はやっぱり人だと思うんです。ところが、企業が小規模なうちは、人を集めたいと思ってもなかなか集まらない。そうして集まった4人、これがたまたま兄弟だったというにすぎないんですね。だから、これまたカシオにとってラッキーだったとしか申し上げられないんです。


 われわれの場合、まず工場で経営が始まったわけですが(昭和21年、前身の樫尾製作所設立)、企業として存続してゆくためにどうすればいいのかを考えましたね。誰でも作れるような物を作ったんではしょうがない、存在価値のある、社会の役に立てるものを作らなきゃ意味がないわけです。すると、基本は創造力を持った人間が開発にあたることになるんですが、その適任者としてウチの次男がいたということですね。彼はこの仕事をやるために生まれてきたような男で(笑)、どこを探してもいない貴重な人物ですよ。


 3番目は非常に積極果敢な営業センスを持っている。四男坊は細かいことを設計するのが得意なんですよ。終戦の年に大学を出たんですが、卒業論文のテーマに飛行機エンジンの設計というのを提出したほどなんです。それに私自身はというと、技術屋として非常に優れてはいないけど、試作品ぐらいは作れる能力を持っていた(笑)。


 ですから、経営者としては「天祐」なんて言葉は遣いたくないんだけど、創業時に必要な人材がたまたま兄弟であったというのは、つくづく幸運だったと思います。ただ、4人で始めたものが、いま従業員3500人ぐらいになっておりますが、4人が兄弟であることのメリットは樫尾製作所時代の話でして、その後は優秀な人材に恵まれましたね。この人がいなかったらあの商品は生まれなかった、というケースはしょっちゅうです。



■同窓会では「戦死」扱い

 麓 戦前の町工場には職人気質の親父さんがいましてね、自分で工作機械をいじったりして、人と工場が一体になったような雰囲気がありましたよね。昔は村々にあった鍛冶屋さんに代わって、各地に出来たこういう町工場の技術の高さが、今の日本経済の強さの一つだといわれているわけですけど、樫尾さんの場合、町工場から出発して一つの大きな山を築かれた。そんな経歴を見てますと、松下幸之助さんに似てらっしゃるんですね。


 樫尾 いやいや、松下さんとは全然比較されるような立場じゃないんで、これは先方がえらい迷惑でしょう。


 ところでこんなことがあったんですよ。私は両親に連れられて高知から上京したんですが、小学校時代は荒川区に住んでまして、47年ぶりの同窓会に私が出たのは、やっと2年前のことですよ。というのは、小学校の同級生の間では、私は戦死したことになっていましてね、2年前に級友の加太こうじ君(作家。『黄金バット』などの紙芝居作者)が「ひょっとしてカシオ計算機の社長は同じ組にいた樫尾じゃないか」と電話をかけてきてくれて、ようやく生き返った(笑)。


 麓 大正6年のお生まれだと戦地にいらしたんでしょう。


 樫尾 いえ、兵隊検査は荒川区で受けたんですが、身体が細いのでいけませんでした。そのあと20年に三鷹に引越した際に、本籍を住民票と一緒に持ってきちゃったものだから、みんな戦死したと思い込んだんですね。


 麓 そういう時代でしたよね。


 樫尾 で、その同窓会で「そういえば樫尾君は手工が得意だった」という話が出たんです。その時にも言ったんですけど、手工が上手だと技術屋には向いてるかもしれないが、経営に向いてるとは限らない。カシオ計算機とは関係ないよ、と。


 いずれにしましても、同窓会に出てみてわかったんですが、同級生の3分の1がもうこの世にいないんですね。われわれは二・二六事件の年に兵隊検査を受けたんですが、戦死した者も多いし、この年になると病気で亡くなったり……ちょっと寂しい思いをしました。私もあと1年、戦争が長引いてたら、おそらく戦地に出てたでしょうな。


 ウチの“発明者”という綽名の次男坊は、終戦の年の7月半ばに現役で新潟に入隊したんですよ。通信兵でいて、特攻機に乗り込む予定だったなんて言ってたね。危いところだった。


 麓 ついてるんですね。私なんかも戦争末期の世代ですけど、何分かの差で空襲で死ぬとこだったんですよ。


 しかしある意味では、こういう4人息子を生んでくれたご両親もまた、結果的には成功者ということになりますね。


 樫尾 そうかもしれません。私たち兄弟が力を合わしてこれたのも、親父が必死に働き、おふくろは内職までして育ててくれたお蔭ですね。そういう両親の姿を見てると、知らず知らずのうちに、少しでも楽させてやりたい、兄弟は睦まじくしなきゃいけない、という考え方になってゆくんです。


■社長自身が一つの成功例

 麓 カシオは平均年齢30歳という若い会社らしいですけど、ご兄弟が苦労された時代の精神を彼らに伝えるのは、そう簡単じゃないでしょう。今の若い人は時代感覚が違いますから。



 樫尾 一朝一夕に、こうしろああしろといって伝わるものではないですね。まあ、私は別にして、あとの3人は今も現場で仕事をしてるんですよ。役員然としている者は1人もいない。すると彼らのスタッフも安閑としていられないから、同じような形でやる。これが次々と下に伝わっていってるのは確かですね。


 麓 いま伺った経営陣の精神を伝える際、一番むずかしいのは、「努力すれば報われるもの」ということだと思うんです。ご兄弟はそれをご両親から受け継がれたんでしょうが、今の若い人たちは、甘えられるだけ甘えるくせに、一人前だ、みたいな顔をしたがる傾向がありますからね。


 樫尾 「努力すれば」に加えて「貢献すれば報われる」でしょうね。会社のため国家のために一所懸命働くと、どういう形で報われるかというと、まず一つは、待遇とか職制の面ですね。それともう一つは、仕事のやり甲斐を与えること。男子社員の場合、人生に占める労働の時間が相当長いわけですから、仕事をやったという充実感みたいなものが残らないと、欲求は満たされないと思うんです。


 その意味でウチの場合は、絶えず目標を高く置いて、会社じゅうが活性化するようにしているわけです。目標を昨日よりも今日、今日よりも明日、という具合に高くしてゆけば、工程を変えなきゃとか、セールスの仕方を変えなきゃとか、工夫するようになるでしょう。一人一人の工夫は仕事のやり甲斐につながるし、やがては全体の活性化につながってゆく。


 麓 口で言うだけならどこの社長さんでも言えるけど、樫尾さんがそう言うと迫力あるでしょうね。社長自身が一つの成功例なんですから。



■戦後の混乱期も計算機づくり

 麓 最後にお伺いしたいんですが、この3月、樫尾一族が私財1億3500万円を投じて、研究者に研究資金を助成するための「カシオ科学振興財団」を設立されました。その真意というのは、どのへんにあるんですか。


 樫尾 カシオ計算機を設立するまでに、研究期間が7年ほどあったんですよ。社会の役に立つようなものを、自分たちの製品として持ちたい。計算機にするか、他のものにするか、というわけで、7年間迷ってました。この研究期間の経済的な苦しさといったらなかったですね。銀行も何も相手にしてくれない。


 麓 それはそうでしょうね。


 樫尾 海のものとも山のものともつかない工場に融資してくれるはずがない。しかし、こういうときに国が援助してくれたらな、と切実に思いましたね。


 麓 町工場時代は何をしてらしたんですか。


 樫尾 あの戦後の混乱期、食うものもない時代に、私たちは計算機の研究をやってましたよ。しばらくして朝鮮動乱が起きましてね、特需で下請けの仕事を頼まれたんだが、「ウチではいま計算機の研究やってるから」と断って、みんなから馬鹿呼ばわりされまして……(笑)。


 麓 みんなが闇屋やってるときに、道楽やってた(笑)。


 樫尾 「なんで金儲けしないんだ。樫尾は狂ってるんじゃないか」と言われてね、そんなこともありました。


 まあ、これからの日本は技術立国でゆくしかないですね。ところが、応用技術は進んでいても基礎技術はまだまだでしょう。それに国家は、成熟した産業は助成しても、実際に困ってる企業や学者さんには冷たい。それから、樫尾という姓を持ったわれわれが何を考えていたか、社員のみんなに知ってもらえるんじゃないか、ただ私利私欲で事業をやってるんじゃないよということを、若い世代に分かってもらえるんじゃないか――そういう気持で科学振興財団を作ったんです。


 麓 どこの社会でも、頭(ヘッド)と心(ハート)とはなかなか一致しないんです。そういう意味でも、この財団の意義は大きいと思いますね。


■〈解説〉樫尾四兄弟が夢見た技術立国

ジャーナリスト・大西康之



 カシオ計算機が半導体の進歩に大きく貢献したことはあまり知られていない。人類を月に送るアポロ計画のため、真空管に代わる電子部品として生み出された半導体。当時は軍需が大半で民生の需要はほとんどなかった。


 半導体の大量生産、大量消費に道を開いたのは電卓であり、それを世界に普及させたのは、本邦のカシオ計算機とシャープである。1971年に日本で生産された半導体の実に40%が電卓に使われた。コンピューター用は26%に過ぎない。


 1960年代の半ばから70年代の半ばにかけて、カシオとシャープが火花を散らした「電卓戦争」。両社の激烈な開発・価格競争により、電卓の重さはわずか十数年で384分の1、価格は63分の1にまで下がった。


 カシオを率いたのはマネジメントが得意な長男の忠雄、二男でアイデアマンの俊雄、三男で生まれながらの営業マン和雄、四男で手先の器用な幸雄の「樫尾四兄弟」だった。対するシャープにはアポロ向け半導体の開発に携わった天才エンジニア「ロケット・ササキ」こと専務の佐々木正がいた。



 もともと神戸工業(現デンソーテン)にいた佐々木は、シャープ創業者の早川徳次に三顧の礼で迎えられ、世界初のオールMOS(金属酸化膜)-LSI(大規模集積回路)電卓「QT-8D」を開発する。QT-8D(1969年発売)にアポロ宇宙船で使われた最先端の半導体であるMOS-LSIを使うことで、シャープは電卓の価格を35万円から9万9800円に引き下げた。


 そこで、樫尾四兄弟が繰り出したのは、計算能力を12桁から6桁に落として値段を1万2800円にするという奇策だった。「6桁の電卓などおもちゃに過ぎない」。シャープをはじめとするライバル各社は一笑に付したが、消費者は熱狂した。


 6桁は10万円、12桁なら1000億円である。「1000億円台の計算など、大企業の社長でも滅多にしない。個人商店なら6桁10万円台で事足りるはずだ」。四兄弟の読みはまんまと当たった。


 1972年に発売された「カシオミニ」は「答え一発」のキャッチフレーズとともに全国津々浦々に浸透した。商店街の店主がそろばんを電卓に持ち替えたのだ。電卓の販路として全国の文房具店を組織化したのは三男の和雄だった。


 戦後、日本中が朝鮮特需に沸いたころ、「電子計算機」の開発に没頭していた樫尾四兄弟は変人扱いされた。ライバルだったシャープの佐々木もまた、会社という枠にとらわれない突き抜けた男だった。8ミリ角の半導体に命をかけた樫尾四兄弟や佐々木が礎を築いた電子立国日本は、今まさに落日の時を迎えている。


 1983年のインタビューで樫尾四兄弟の長兄、忠雄はこう語っている。「まあ、これからの日本は技術立国でゆくしかないですね」。しかし35年後の今、その技術が揺らいでいる。


(樫尾 忠雄)


注: この記事は配信日から2週間以上経過した記事です。記事内容が現在の状況と異なる場合もありますのでご了承ください。

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