この2月に中国から東京の上野動物園にやって来た雄と雌のジャイアントパンダ「リーリー」と「シンシン」が、4月1日、東日本大震災の影響で予定より10日遅れで公開された。2008年に雄パンダの「リンリン」が死んで以来、上野では3年ぶりにパンダが復活したこの日、開園前から正門前に2000人が行列をつくるほどの盛況ぶりだった。
日本では現在、和歌山県のアドベンチャーワールド神戸市立王子動物園でもパンダが飼育・展示されているが、やはり上野動物園のパンダには特別の意味合いがあるようだ。

パンダ公開を前に刊行された家永真幸『パンダ外交』(メディアファクトリー新書)という本は、若手歴史学者が膨大な文献をもとに、19世紀後半の中国・四川でのフランス人宣教師によるパンダの「発見」に始まり、歴代の中国政府がいわゆる「パンダ外交」をいかに形成していったのかをたどった力作である。

同書によると中国政府が初めて外交目的にパンダを利用したのは1941年、日中戦争のさなかだったという。蒋介石率いる国民党政府は、当時の中華民国の首都・南京を日本軍に攻略され、本拠地を四川に移していた。これと相前後して、アメリカやヨーロッパでは1930年代に続々とパンダが持ち込まれ、人気を集めた。ニューヨークのブロンクス動物園でも2頭のパンダが飼育・展示されていたが、1940年から翌41年にかけてあいついで死亡、そこへ中国は新たにパンダのペアを贈呈したのである。
そこには、アメリカ社会から共感を引き出し、日本軍との戦いを支援してもらおうという、当時の中国政府の思惑が込められていた。

こうしたパンダを使った外交は、第2次大戦後の内戦で国民党に勝利し、中華人民共和国を建国した共産党政府にも引き継がれた。共産党政府は1950年代、新設した北京動物園で庶民にもパンダを見られるようにするとともに、同じく社会主義国で建国当初の中国とは友好関係にあったソ連にパンダを贈っている。ただしその頃から徐々にソ連との関係は悪化、のちにアメリカや日本など西側諸国との接近をはかるようになった中国は、その過程で各国にパンダを贈呈していく。

本書を読んでいてとくに印象に残ったのは、イギリスのロンドン動物園で飼育・展示されていた雌パンダの「チチ」だ。チチは中国から直接イギリスに贈られたわけではない。
そこにはオーストリアのデンメルという動物商が介在していた。デンメルはアフリカの動物と交換で北京動物園よりパンダを譲ってもらうことに成功する。その背景には、オーストリアが冷戦下にあって東西どちらの陣営にも属さない中立国だったこともあるようだ。

ともあれ、デンメルが1958年に入手し、チチと名づけられたパンダは当初、アメリカの動物園に売却される予定だったものの、中国に対し禁輸政策をとっていたアメリカ政府に阻まれる。しかたなくデンメルはコペンハーゲン(デンマーク)、ロンドンと巡回しながらチチを展示するのだが、やがてその人気に目をつけたロンドン動物園に買い取られることになった。

当時、中国以外にパンダを飼育しているのは、ロンドン動物園とソ連のモスクワ動物園しかなかった。
1960年以降、チチは発情を繰り返すが、ロンドン動物園から雄パンダの提供を求められた中国側は、野生のパンダは保護のため捕獲を当面禁止しているとの理由からこれを断る。チチは結局、モスクワ動物園の「アンアン」と見合いをすることになる。アンアンとしても、中ソ関係が悪化している以上、チチしか相手がいなかったのだ。66年と68年に行なわれた見合いはいずれも失敗に終わったものの、冷戦下で東西両陣営が協力した珍しいケースとして各国のメディアに注目された。それまでほとんどパンダが知られていなかった日本でも、海外の面白いニュースとしてたびたび報じられている。

ちなみに、戦前に叔父からパンダのぬいぐるみをもらって以来の筋金入りのパンダマニアである黒柳徹子が、1967年に初めて目にした実物のパンダもチチだった。
また、1970年に創刊した女性ファッション誌『an・an』のタイトルは、一説にはモスクワ動物園のアンアンからとられたともいわれ、実際、いまでも同誌の裏表紙にはパンダのイラストがあしらわれている(そういえば、同誌での小泉今日子の連載をまとめたエッセイ集も『パンダのan・an』というタイトルでしたっけ)。1971年には昭和天皇もヨーロッパ歴訪の折にロンドン動物園でチチと対面、予定されていた時間をオーバーするほど熱心に観察したという。1972年、日中国交正常化にともない中国から上野動物園へ雄・雌のパンダ「カンカン」と「ランラン」が贈られたとき、日本では熱狂的なパンダブームが起こったが、その下地はすでにできていたのだ。

さて、パンダが初めて日本にやって来たときについて、当時の書籍や新聞でちょっと調べてみた。72年11月5日に一般公開が始まると、動物園の開園前から2キロにもおよぶ行列ができていたという。あまりの見物人の多さにパンダが変調を来たし、この日の公開は予定の30分前の午後3時半に切り上げられた。
2日後の11月7日にはカンカンが風邪をひき、ランランも疲労のため全日公開が中止される。翌8日、パンダの公開時間は1日2時間、月曜と金曜は全日休養とすることが決まった。それでもパンダ効果は絶大で、公開が11月からだったにもかかわらず、同年度の上野動物園の入場者数は前年を100万人上回る501万人と、開園90年にして初めて500万人を超えた。

デパートにはパンダをあしらった商品があふれ、ぬいぐるみは1年ほどのあいだに500万個近く、100億円の売り上げを示したという。商店などの客の呼び込みには着ぐるみのパンダが動員され、喫茶店やバー、麻雀店の名前、清酒の銘柄にもパンダの名が使われた。このほか、パンダ来日直後に実施された総選挙では、自民党や公明党がパンダをシンボルマークに採用したり、新聞各社が電話で提供していたニュース・サービスではカンカンの鳴き声が流され、初日だけで約61万回の通話があり、似た番号を持つ会社や家庭では間違い電話も多発、文字どおり“カンカン”になったというエピソードも残されている。


年が明けて73年には、さる有名な占い師がテレビ番組で「パンダは今年中に死ぬ」と“予言”、世間は大騒ぎとなる。だが、それからまもなくして、今度は“霊感主婦”と呼ばれる女性がやはりテレビで「パンダは、あと7年は死にません」と言い切り、騒ぎは終息したようだ。いまから振り返ると、ランランは79年、カンカンは翌80年に死んでいるので、「7年は死なない」という霊感師の占いはほぼ的中したことになるが……。

80年にはランランに代わる新たな雌パンダとして中国から「ホアンホアン」が、82年には雄の「フェイフェイ」が上野動物園に贈られた。ホアンホアンとフェイフェイとのあいだには人工授精により3匹の子供が産まれ、そのうち最初の1匹は生後まもなくして死んだものの、あとの2匹、雌の「トントン」と雄の「ユウユウ」は順調に育った。ユウユウはその後、トントンのパートナーとして迎えたリンリンと交換で北京動物園へと旅立っている。

じつは、中国がほかの国に対してパンダを贈呈したのは上野のフェイフェイが最後だった。それ以降、中国から各国の動物園に渡ったパンダはすべて、贈呈されたのでも売却されたのでもなく、有償で貸し出された“レンタル・パンダ”であり、将来的に返還が想定されている。今回、上野動物園で新たにパンダを借りるにあたっても、日中間でさまざまな問題が噴出していたこともあり、高額なレンタル料を求める中国を批判する声も上がった。

たしかに中国は、これまでパンダを利用してしたたかともいうべき外交を展開してきた。しかし、前掲『パンダ外交』によると、贈呈からレンタル方式へと移行したのは、中国の自発的な政策転換というより、むしろ《国際的な野生動物保護の潮流に歩調を合わせるために、パンダの贈呈を停止せざるをえなくなった》からだという。

第2次大戦後、動物保護のため「国際自然保護連合(IUCN)」や「世界自然保護基金(WWF)」といった国際機関が設立された(なお1961年に創設されたWWFのシンボルマークはパンダだが、その発案者であるイギリスの画家のピーター・スコットの頭には、当時母国で飼われていたあのチチのイメージがあったという)。1973年にはIUCNが中心となって、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」、いわゆる「ワシントン条約」が採択されている。

中国がワシントン条約に加盟したのは1981年、その3年後には、パンダは同条約にリストアップされた絶滅危惧種のうちもっとも危機に近い「附属書I」に分類されるにいたった。こうしてパンダの商業的な取引は原則禁止となり、中国はその贈呈を一切停止する。それでも世界中の動物園はパンダをほしがった。そこで90年代には、繁殖研究のため長期的にパンダを借り受ける代わりに、共同研究相手の中国の動物園や施設に毎年寄付金を支払うという「長期レンタル方式」が確立される。和歌山のアドベンチャーワールドはその最初のケースとなった。

『パンダ外交』のなかで著者は、今回のパンダ来日を前にして思いのほか日本国内での反対が強かったため、「パンダはどこでも歓迎される」という中国のパンダ外交の大前提が崩れるのではないかと推測している。それがいざフタを開けてみれば、日本人は以前と変わらず温かくパンダを迎え入れた。そこにはもちろん公開直前に発生した震災の影響もあるのだろう。だが、けっしてそればかりではないと思う。

パンダは日本の社会に、動物との付き合い方を見直すきっかけをつくり、自然保護の大切さを教えてくれた存在でもある。約40年前にパンダがやって来て以降、日本の動物園では、動物をできるだけ自然に近い環境で飼育・展示することが重視されるようになり、またパンダ繁殖のための人工授精の実施は、絶滅の危機や種の保全などの言葉を一般化するとともに、獣医・畜産工学への寄与をもたらした(石田おさむ【※】『日本の動物園』)。そう考えると、近年、よこはま動物園ズーラシアや旭川市旭山動物園から全国の動物園に広がった「生態展示」「行動展示」と呼ばれる展示形態や、あるいは現在進行中のトキやコウノトリの再生プロジェクトなど、すべての原点はパンダにあるとも言えるかもしれない。(近藤正高)

【※】おさむは正しくは、輯の右半分と戈