2週連続で放映されるジブリ作品、先週の「天空の城ラピュタ」に続くのは2010年に公開された「借りぐらしのアリエッティ」だ。地上波では初放映なので、楽しみにしている人も多いだろう。

「借りぐらし」とは、人間の家に隠れ住んでいる小人種族のことである。彼らは人間たちの食料や雑貨、電気や水道などをちょっとずつ「借りて」生活しているのである。人間たちに存在を知られたら、生活はおろか種族の存続さえも危なくなってしまう。だから人間に姿を見られないことを絶対の掟として彼らは暮しているのだ。
舞台となるのは東京郊外のある古い屋敷である。そこに1週間だけ滞在するため、翔という少年がやってくる。
ちょうどそのとき、屋敷に住む「借りぐらし」の一家の少女アリエッティは、14歳の誕生日を前に、初めての「借り」に胸を膨らませていた――。

これから観る人の興を削がないよう、あらすじの紹介はこのくらいにしておいたほうがいいだろう。でも映画を愉しんで観てもらうために、2つだけ私がおもしろいなと思ったことを書いておく。このくらいはいいよね。
1つは、アリエッティの台詞回しだ。この作品には2つの「かり」が出てくる。
1つは、人間たちに生活必需品を「借り」に行く「かり」。もう1つは、野生の動植物を捕らえる「狩り」の「かり」。その2つが明確に区別されているのにちょっと感心した。あまり注意深くない観客でも、この違いは聞き分けられるはずである。
もう1つは水滴の表現だ。小人たちがポットで入れるお茶、アリエッティの目尻ににじむ涙、それらはすべてしずくになる。
水には表面張力があるからだ。ミニチュアで特撮をやっても、着水の表現があれば発生するしずくの大きさで実際のモデルの縮尺はわかってしまう。しずくは嘘をつけないのである。それと同じ現象を逆手にとって、しずくをリアルに見せることで借りぐらしたちの小ささを演出して見せているのだ。もちろんアリエッティたちほど小さくなれば人間の目とは違う形で世界は見えているはずなので、これはあくまで映像表現上の嘘である。巧い嘘だと思う。


この映画の原作は、イギリス出身の作家メアリー・ノートンが1952年に発表したThe Borrowersだ。『床下の小人たち』の題で岩波書店から邦訳が出ている。小説と映画版の違いは当たり前だが舞台が日本になっていることで、原作はイギリスのお話である。ロンドンで暮す少女ケイトが、同居するメイおばさんから昔語りとして聞かされる形で話は始まる。おばさんが少女のころの話、しかも戦死してこの世にない弟の体験談なのである。「借りぐらし」の話は「すでに失われたもの」の物語だというのは大事な点だ。

メイおばさんは、「借りぐらし」たちが暮す家の特徴をこんな風に話す。

「そういうものがいたとしたところで、せいぜいずっといなかのほうの、古い、しずかな家だけだろうよ――住んでる人間たちが、判でおしたような暮らしをしているような古い家だけさ。きまりきったことしかおこらないってことが、安全のしるしなんだよ(後略)」(林容吉訳)

つまり、生活様式が多様化した都市文明に「借りぐらし」はなじめないのだ。

作者のメアリー・ノートンは1903年の生まれで、20代の前半はロンドンで俳優として活躍していたこともある人物だ。少女期に第一次世界大戦(1914〜18)、1927年に結婚してすぐに夫の会社が世界大恐慌で倒産(1929)、第二次世界大戦(1939〜45)のさなかの1942年に4人の子供を連れてアメリカに移住と、人生の前半に波瀾万丈の経験をし尽くしている。特に注目したいのは1942年のアメリカ移住で、これはヨーロッパ全土を侵略する勢いだったナチスドイツの手がイギリスに及ぶことを怖れてのことだった。
ナチスドイツの手から逃げようとしてアメリカに渡るノートンと、人間に見つかることを怖れて隠れ住む「借りぐらし」たちの姿はどうしても重なってくる。そのことを念頭に置いて読むと、『床下の小人たち』の記述は『アンネの日記』で描かれた、ユダヤ人一家の暮しと二重写しのものに見えてくるのだ。

『床下の小人たち』のあと、『野に出た小人たち』(55)、『川をくだる小人たち』(59)、『空をとぶ小人たち』(61)と続くシリーズでは、借りぐらしたちが安住の地を求めてさまようことになる。人間の中には彼らを認めてかばってくれる者もいるが、中には捕まえて見世物にしようと目論む者もあり、なかなか安住の地は得られないのだ。ノートンが現代人の心のありようを疑問視していたことは間違いない。20年の沈黙を破って書き下ろされた新作『小人たちの新しい家』でも、ようやく見つけた住処を心無い人間に脅かされ、アリエッティたちは再び窮地に陥る。この小説で最後に借りぐらしの小人が漏らす言葉は、次のように意味深長なものなのである。

「そうかね?」ピーグリーンはやさしくいいました。「本当にぼくたち安全かねえ? いつまでも?」

楽しい童話であり冒険物語であると同時に、鋭い20世紀文明批判の書でもある。宮崎駿が『床下の小人たち』を映像化すると知ったとき、なるほどその手があったか、と感心させられたものである。この作品は過去にアメリカで2回映像化されているのだが(うち1回は故・ジョン・キャンディ主演のコメディ『ボロワーズ』)、20世紀文明の進展のありように警鐘を鳴らし続ける作家である宮崎駿こそがもっともふさわしい作り手であることは間違いない。原作と映像作家とが理想的な出会いをしたといっていいだろう。

ところで、映画を観て原作にも関心が湧いてきたという人のために、もう少しお薦め作品を書いておきたいと思う。
人間の世界で小さな主人公が活躍する物語としてはセーラ・ラーゲルレーヴ『ニルスのふしぎな旅』も有名だ。妖精にいたずらをしたために体を小さくされた少年ニルスがガチョウのモルテンの背に乗り、ガンの群れとともにスウェーデン中を旅行してまわる話で、作者のラーゲルレーヴは女性で始めてのノーベル文学賞受賞者になった文豪である。

『床下の小人たち』と同様の文明批判を帯びた内容で、より娯楽小説の色合いが強いのが、マージェリー・シャープ〈ビアンカの大冒険〉シリーズだ。この小説の主人公は、ネズミたちの国際組織「囚人友の会」のメンバー、ミス・ビアンカである。「囚人友の会」は、不当な理由で監禁されている人間を救出する任務を担っている団体で、毎回ミス・ビアンカたちが敵地に潜入して任務を遂行する冒険小説の形式をとっている。救出の対象になっているのは大人だけではなく子供のこともあり、今から考えるとかなり早期の児童虐待を扱った作品でもあった。ディズニーでかなりソフトタッチに翻案された作品が映画化されたことがあるので、ご存知の読者も多いだろう。

日本の作家では佐藤さとるの一連の著作を忘れてはいけない。TVアニメ「冒険コロボックル」の原案になった『コロボックル物語』は、コロボックル伝承を現代に甦らせた重要な作品だ。また佐藤は、『おおきなきがほしい』などの作品で子供の隠れ家願望を物語に昇華している。宮崎駿は、間違いなく佐藤の影響を受けているはずだ。もう1人、いぬいとみこには『木かげの家の小人たち』がある。第二次世界大戦下の日本が舞台で、イギリスから来た小人たちとひそかな友情を育んだ少女が厳しい現実に直面する物語だ。『コロボックル物語』よりも直截的な文明批判が行われており、「借りぐらしのアリエッティ」に近いところに位置する作品といえる。

小人が出てくる作品ではないが、人間と近いところにいる人外の存在を描いた作品として、キース・ドノヒュー『盗まれっ子』を挙げておく。妖精が赤ん坊と自分の子供を取り替えてしまうというヨーロッパの取り替えっ子伝説を下敷きにした作品なのだが、この小説の場合は取り替えられた子供が次に自分が入れ替わる順番になるまで、人里近くで機会を伺いながら何百年も生きている設定になっているところが特徴。一度は人間だった子供が、次第に記憶を失いながら人間ではないものとして生きていかなければならないという哀しみが、小説に独自の色彩を与えている。似たような物語ではチャールズ・キングスレイ『水の子』が、溺れて水の精になってしまった子供を主人公とする古典童話だが、現在ではあまり読まれていない作品だろう。

サバイバル小説としてはデフォー『ロビンソン・クルーソー』よりも、そのバリエーションとして書かれたヨハン・ダヴィッド・ウィース『スイスのロビンソン』のほうが「アリエッティ」には近いだろう。個人ではなく、家族の漂流記だからだ。もっともこの小説は現在品切れで入手困難である。関心がある方はとりあえず『スイスのロビンソン』のアニメ化作品である「ふしぎの島のフローネ」をレンタルなどでご覧になってはどうか。サバイバル小説ではないが、幼い姉弟が家出をしてメトロポリタン博物館に隠れ住む『クローディアの秘密』もお薦めだ。
おっと忘れていた。映画の中で翔が読んでいる本の題名にフランシス・ホジスン・バーネット『秘密の花園』があった。宮崎駿『本へのとびら』にも紹介されている、児童文学の古典的名作です。気になった方は、こちらもぜひどうぞ。(杉江松恋)