1月6日、津市の三重県総合文化センターにて、若松孝二監督の映画「千年の愉楽」が全国に先がけて上映された。お隣の愛知県から1時間半ほどかけてやって来たぼくは、会場にて隣り合わせたおばあさん2人からふいに「尾鷲から来たの?」と訊かれた。
今回の映画の大半のロケが三重県内で行なわれたことは聞いていたが(だからこそ全国に先がけて上映会が行なわれた)、そのロケ地が尾鷲市内だったと知ったのはこのときだ。この日も会場には尾鷲から結構たくさんの人が来ていたようである。

「千年の愉楽」は中上健次の同名小説が原作になっている。昨年8月でちょうど没後20周年を迎え、自分のなかで中上健次ブームが再燃していただけに、若松監督による映画化にはぼくも期待をふくらませていた。公開時期は当初2012年秋とアナウンスされたものの、しばらく経って2013年春に延期。監督の不慮の事故によるあまりにも突然の死は、その変更の直後、昨年10月のことであった。
三重県での先行上映会は、監督が作品の完成直後より強く望んでいたものだという。監督自身がその舞台挨拶に立てなかったのは残念だが、その代わり佐野史郎、高良健吾、高岡蒼佑、井浦新、瀧口亮二(助監督を兼任)ら出演者が会場を訪れて念願がかなえられることになった。

中上健次の小説はこれ以前にも、1970年代より「青春の殺人者」(長谷川和彦監督。原作は『蛇淫』)、「赫い髪の女」(神代辰巳監督。原作は『赫髪』)、「十九歳の地図」(柳町光男監督)など、たびたび映画化されてきた。最近でも高良健吾と鈴木杏の出演による「軽蔑」(廣木隆一監督)が公開されている。


とはいえ、千葉で起きた現実の殺人事件をもとに、中上が自身の故郷である紀州へと舞台を置き換えて小説にした『蛇淫』に対し、それを原作とした「青春の殺人者」ではモデルとなった事件そのままに千葉が舞台とされた(いや、「青春の殺人者」は、原作を忠実に再現しているとかは抜きに十分面白いのだが)。この例にかぎらず、中上の作品世界をそのまま映像化することには常に難しさがつきまとった。それは構成が複雑だったり、文章で描かれていることが映像にしにくいという以前に、物語の舞台の大半が被差別部落(同和地区)だからというのがまずあるのだろう。現に、中上が生まれ育ち、自ら「路地」と名づけたこの地域を舞台にした『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』などといった代表作は、いまだに映像化されていない。

『千年の愉楽』もこうした作品群のひとつに位置づけられる。一時期、角川春樹により映画化の話が持ち上がったものの(音楽は坂本龍一が予定されていた)、結局実現しなかった。
この話を受けて、ぼくのある映画好きの友人は、いっそのことアメリカかどこか日本国外を舞台にして、出演者も外国人で固めればいいのに……などと冗談で言っていたものである。だが、『千年の愉楽』を映画化するなら、その舞台はやはり中上の生まれ育った紀州の「路地」に設定しなければ、まったく意味がないのではないか。今回、若松監督の手になる映画版を見て、つくづくそう思った。

もっともその配役には、原作になまじ思い入れがあるだけに、最初知ったときはやや戸惑った。とくに物語の狂言回しにして語り部であるオリュウノオバには、北林谷栄のような老婆を勝手にイメージしただけに、寺島しのぶが演じると知ったときは意外だった。だが、よくよく考えてみれば、オリュウノオバとて最初から老婆だったわけではない。
小説では、世界を俯瞰する超越的な立場にあったオバだが、寺島が演じることで、生身の女としての存在感が原作よりも増したような気がする。

「千年の愉楽」は、一言でいえば、「路地」に生きる不吉な血を受け継ぐ男たち(中本の一統)を描いた物語だ。映画では、井浦新演じる「中本彦之助」、その息子の「半蔵」(高良健吾)、半蔵の叔父にあたるものの歳は下の「三好」(高岡蒼佑)、それから半蔵のイトコの「達男」(染谷将太)の4人が登場する。彦之助は冒頭、刺されて血だらけになりながら、オバの夫で僧侶の礼如(佐野史郎)に看取られ息を引き取る。同じ頃、産婆であるオバにとりあげられ、半蔵が生まれた。半蔵といい三好といい、淫蕩の血を受け継ぎ、とにかく女にもてるのだけれども、それゆえに身を滅ぼしてしまう。


登場する中本の男たちは、俳優たちの好演によってそれぞれ魅力を発揮している。このうち半蔵を演じた高良は、先述した映画「軽蔑」と「千年の愉楽」と、2年続けて誕生日を中上原作映画の現場で迎えたという。上映後のトークショーでは、半蔵の最期のシーンの撮影は雨で一日延びたため自分の誕生日に行なわれることになり、それだけによけい印象に残ったと語っていた。

そんな高良演じる半蔵もそうとうの男前なのだが、それ以上の存在感を見せているのが高岡演じる三好だ。盗みに生きがいを見出し、薬物に溺れ、さらには人妻と情事にふけったあげく彼女の夫を殺す……という具合に悪に手を染める彼だが、一方で子供のような無邪気さをどこまでも持ち合わせていた。

映画「千年の愉楽」の見どころは、まさにこの三好の物語に尽きるといっていい。
おそらく若松監督は、高岡に惚れぬいてこの映画を撮ったのではないか。そう思わせるほど、彼の魅力がたっぷりと引き出されている。思えば、トークイベントでも高岡本人が語っていたように、この映画に出演が決まったとき、彼は韓流批判や離婚などでちょうど世間をにぎわせた直後だった。この映画における三好の魅力も、やはり一回どん底を経験したからこそ開花したものだろう。監督にもきっと、いまの彼だからこそ演じられるものがあるという確信があったはずだ。その意図は見事に成功している。何しろ、これまで正直いって高岡が好きではなかったぼくが、この映画を観てすっかりとりこになってしまったのだから。『千年の愉楽』が彼にとって再起の一作となることは間違いない。

さて、近年の若松監督の作品には、歴史のタブーともいうべき事件や人物にアプローチするものが目立った。「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」「11・25 三島由紀夫と若者たち」はいわずもがな、「キャタピラー」では江戸川乱歩の小説『芋虫』を下敷きに、そこに現実の戦争と性暴力というテーマを大胆に盛りこんでみせた。これら作品では当然ながら、特定の年代が明示されている。

それが「千年の愉楽」では、時代が一切特定されない。原作小説では、主に終戦直後が舞台となり、戦争の話も随所に出てくるにもかかわらず、である。たしかに映画においても、百円札が出てきたりと、あきらかに現代とは違う時代であることはわかるのだが、劇中に出てくる「路地」はリアルな時間の流れとは隔絶した空間にも感じられる。

実際、今作のロケ地となった尾鷲市の飛び地である須賀利(すがり)町は、長らくほかの地域に通じる道路がなく、船でしか行き来ができなかったため「陸の孤島」とまで呼ばれていたという。しかしそのおかげで、急な斜面の上に小さな家々がひしめき合うという古い町並みが残されることになった。

現実の中上健次の故郷である和歌山県新宮市の「路地」にも、かつて同じような光景が広がっていたはずである。だがそれも80年代以降の土地改良事業により、すっかり様変わりしてしまった。それだけに、ロケハンでかの地を見つけ出したときの若松監督の喜びは大きかったのではないだろうか。「監督は一貫して時代や流行に左右されない人間の本質的なものを撮り続けていた」とはトークイベントでの佐野史郎の指摘だが、よくも悪くも本質をムキ出しに生きた男たちの物語である「千年の愉楽」にとって、空間的にも時間的にも隔絶された須賀利の地は格好のロケーションであったといえる。

そういえば、冒頭に紹介したおばあさんの1人が終映ののち、トークイベントが始まるやいなやステージの近くにまで駆け寄り、出演者らに対し自分は須賀利の出身だと告げ、感謝の言葉を述べていたのは印象的だった。舞台となった土地もまたこの映画の主役である――。上映後の光景を見て、そう強く感じた。(近藤正高)

※『千年の愉楽』は、2012年12月から新たにインスクリプトより刊行の始まった『中上健次集』の第1回配本(第7巻)に『奇蹟』とともに収録されている。