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徳川家康のあの有名な肖像画にハッタリ疑惑

2015年12月5日 09時50分 ライター情報:近藤正高
教科書に載っていた歴史上の人物の肖像が、その後の研究によって実は本人を描いたものではなかったと判明することはわりとよくある話である。思いつくだけでも、聖徳太子、源頼朝、足利尊氏などの例が浮かぶ。
名古屋市内のとある交差点には、「しかみ像」を模した家康(とされる)像が置かれている

これらと似たような話で、最近になって徳川家康の有名な「しかみ像」にも疑惑が持ち上がっている。この画像は、尾張徳川家に伝わってきた名品を収める徳川美術館(名古屋市)に所蔵されているもので、甲斐の武田信玄に三方原の戦い(1572年)で大敗した家康が、顔をしかめた姿を絵師に描かせ、自分への戒めとして生涯座右としたと伝えられている。「徳川家康三方ヶ原戦役画像」との正式な名称もこの話を踏まえたものだ。
名古屋市内のとある交差点には、「しかみ像」を模した家康(とされる)像が置かれている

だが、今年8月、「しかみ像」は三方原の戦い後に家康が自ら描かせたものではないという新説が発表された。これは、徳川美術館の原史彦学芸員による説だ。

「読売新聞」中部版2015年10月24日付の記事によれば、この画像が尾張徳川家にもたらされたのは、江戸中期の1780年、9代目当主の徳川宗睦(むねちか)に紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)が嫁入り道具として持参したときだ。従姫が亡くなったあと、1805年には尾張家は家康ゆかりのものを収める「御清御長持(おきよめおんながもち)」に収められた。だが、江戸時代にはこの画像と三方原は結びつけられてはいなかったという。

表現方法などからしても、三方原の戦いよりもあと、江戸時代に描かれたもので、その表情も悔しがっているのではなく、当時の絵によく見られた仏教的な怒りの表情だろうと、前出の原学芸員は推測している。

画像と「三方原」を結びつけたのは誰か?


では、一体どうしてこの画像と三方原が結びついたのか? 前出の読売記事によれば、徳川美術館が開館した翌年の1936年1月、同美術館の創設者で尾張徳川家19代目当主・徳川義親(よしちか。1886~1976)が地元新聞の対談で話したことがきっかけらしい。

その対談で義親は、しかみ像は尾張家初代の徳川義直が父・家康の苦難を忘れないよう描かせたものと説明していた。ほかならぬ尾張家の当主が話したことだけに、ここからしかみ像は三方ヶ原戦没画像として定着、さらに72年に刊行された徳川美術館収蔵品図録で、画像は義直ではなく家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかったと記されたことがそのまま事実として広まってしまったようだ。

《原さんは「義親氏は厳密な歴史性からこの逸話を持ち出したのではなく、開館したばかりの美術館を宣伝するキャッチコピーのような感じで、サービス精神から言ったのではないか。

ライター情報

近藤正高

ライター。1976年生まれ。エキレビ!では歴史・科学からドラマ・アイドルまで手広く執筆。著書に『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)など。愛知県在住。

URL:Culture Vulture

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