光秀フルボッコ


先週放送の「真田丸」第4回の終わりがけで起こった本能寺の変。劇中ではその原因を、諏訪・法華寺で徳川家康(内野聖陽)の接待役を務めた明智光秀を織田信長(吉田鋼太郎)が打ち据えるワンカットのみで示唆していた。
「真田丸」信長死す(2年ぶり14回目) 歴代大河ドラマ、この「本能寺の変」が凄い
1973年放送のNHK大河ドラマ『国盗り物語』(画像は総集編のDVD-BOX)。三谷幸喜は少年時代に家族で毎週このドラマを見ていたという

今回光秀を演じたのは、民放の情報番組やバラエティ番組にも出演する「ハコちゃん」こと作家の岩下尚史。
連歌など古典文化に通じた教養人であったと伝えられる光秀の役に、新橋演舞場の元企画室長で伝統芸能に造詣の深い岩下をあてたのは絶妙のキャスティングといえる。脚本の三谷幸喜も、自分のイメージする光秀は岩下のような人物だと、本人に語っていたとか(「NHK ウィークリー ステラ」2016年2月12日号)。

NHKの大河ドラマで本能寺の変が登場した作品は少なくない。私が数えたかぎりでは「真田丸」まで14作におよぶ。このうち「春日局」(1989年)と「秀吉」(1996年)をのぞく12作は現在、NHKの番組有料配信サービス「NHKオンデマンド」で視聴可能だ。せっかくの機会なので、大河ドラマで本能寺の変はいかに描かれてきたか、オンデマンド配信作品からちょっと振り返ってみよう。


信長人気で2カ月遅れた本能寺の変


大河ドラマで最初に本能寺の変が登場したのは、歴代3作目にあたる「太閤記」(1965年)だ。主人公である豊臣秀吉を当時まだ一般的には無名だった緒形拳が好演した同作は、第1回冒頭で開業まもない東海道新幹線が出てくるなどドキュメンタリーの要素も盛りこまれ、新境地を拓いたとされる。ただし、当時はまだビデオテープが貴重だったこともあり、全52話のうち現存するのはたった1話のみ。それがまさに本能寺の回(第42話)だった。

秀吉の一代記にもかかわらず、本能寺の回がかなり後回しになったのは、高橋幸治演じる信長が人気を集め、視聴者から助命を望む声があがったからだ。結局、高橋の出演期間は2カ月延びている。高橋の掘りの深い日本人離れした顔立ちに、何を考えているかよくわからないポーカーフェイスぶりは、その後の大河における信長像のひとつの規範になっているように思う。


もっとも、本能寺の変の描写は、その後の大河作品とは微妙に違う。よくありがちなのは、信長が本能寺で寝ていたところ、外から馬のいななきなどが聞こえ、異変を察知する……というパターンだが、「太閤記」では事件のはじまりを信長の側からではなく、まず攻める側から描いていた。

明智方の先陣を切った斎藤利三(高桐真)が本能寺の門前で呼びかけ、なかに信長がいるかどうかを確認したのち、襲撃を開始する。寺のなかにいる信長はこの異変に起床してからもしばらくは気づかず、のんきに歯を磨くなどしている。それどころか、家来に光秀の謀反と伝えられてもすぐには信じず、呵々と笑い飛ばす。その後の作品とくらべると、悠長ともいえる展開だ。
これは、襲撃までの段取りをはじめリアリティこそ重視した結果だろう。本作のディレクターの吉田直哉はもともとドキュメンタリー畑の人だから、こうなったのは必然だったのかもしれない。

なお、緒形と高橋はこの13年後の大河ドラマ「黄金の日日」(1978年)でふたたび同じ役を演じている。

信長に加勢した妻・濃姫


続いて大河ドラマで本能寺の変をとりあげたのは「国盗り物語」(1973年)だ。このドラマは司馬遼太郎(今月12日に没後20年を迎える)の同名小説を原作とし、斎藤道三とその義理の息子・信長の生涯が描かれた。ただしこれもNHKには全話残っておらず、いま視聴できるのは番組終了後に放送された総集編(前後編)のみ。

本作終盤における本能寺の変のシーンでは、信長(高橋英樹)に、妻の濃姫(松坂慶子)が槍を持って加勢していたのが印象深い。
マムシと呼ばれた道三の娘らしい勇敢さを示す設定といえる。なお信長夫婦がタッグを組む様子は、その後の「徳川家康」(1983年)や「功名が辻」(2006年)、「軍師官兵衛」(2014年)でも描かれた。

本能寺の変に翻弄される人々


今夜放送の「真田丸」第5回では、主人公の真田信繁(堺雅人)の視点を軸に、各大名が本能寺の変を知ってどう動くかが描かれるようだ。このとき毛利攻めで備中(岡山県)の高松城を包囲していた豊臣秀吉(小日向文世)も初登場する。秀吉は信長の死の知らせを受けて急遽毛利氏と和睦、光秀討伐のため全軍を率いて京へと向かう。世にいう「中国大返し」である。

本能寺の変が各地の大名などにもたらした影響は、これまでの大河ドラマでも描かれてきた。
前出の「黄金の日日」では、信長を討ったと光秀から毛利方に知らせる密書を、主人公の堺の商人・納屋(呂宋)助左衛門(市川染五郎=現・松本幸四郎)がたまたま入手するというエピソードが出てくる。あるいは「おんな太閤記」(1981年)では、西田敏行演じる秀吉の中国大返しが描かれるだけでなく、その妻・ねね(佐久間良子)が、光秀の襲撃を見越して居城・長浜城(滋賀県)から命からがら脱出する。

前出の「徳川家康」では、このとき堺に滞在していた滝田栄演じる家康が、周囲に光秀の密偵が潜んでいることを察知したうえ、京に行って信長に殉じると言い謀り、領地である三河まで伊賀の山々を越えて逃げ帰る。いわゆる「伊賀越え」は、秀吉の中国大返しと並び本能寺の変直後の代表的な挿話で、今回の「真田丸」にも出てくることだろう。

「本能寺爆発」はさすがにやりすぎ!?


信長が単独で主人公となったいまのところ唯一の大河作品「信長 KING OF ZIPANGU」(1992年)はいろんな意味で意欲作であった。信長を緒形拳の次男・緒形直人が演じたほか、秀吉に仲村トオル、家康に郷ひろみ、そして光秀にマイケル富岡をあてるという具合に、配役からして従来の武将たちのイメージを刷新しようという意図がうかがえる。

そればかりでなく、タイトルが示唆するとおり、信長とヨーロッパとの関係にもスポットを当て、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスを語り部に据えたほか、彼らが信長に献上した実在の黒人奴隷ソテロ(信長から弥助と名づけられたとされる)も登場する。
また架空の人物として、平幹二朗演じる加納隋天なる織田家お抱えの祈祷師が何かにつけて信長とからむ。

最終回の本能寺の変では、ソテロが光秀軍の兵士たちを素手でなぎ倒し、さらに隋天が信長を敵方に渡すまいと立ち塞がり、放たれる銃砲や槍を一身に受け止める。驚くことに隋天は致命傷を負いながらもその場で倒れることなく、信長のそばへ戻り、ようやく絶命するのだった。歴代大河でもっとも異色の本能寺の変だろう。

物語の展開上、フィクションを交えた本能寺の変としてはこのほか、上杉家をとりあげた「天地人」(2009年)では炎に囲まれた信長(吉川晃司)の前に上杉謙信(阿部寛)の霊が現れるし、「江~姫たちの戦国~」(2011年)では信長(豊川悦司)の最期のときに、彼の姪でドラマのヒロイン・江(上野樹里)の幻が出現した。

そういえば、「天地人」では本能寺が最終的に爆発を起こしたことも思い出す。これについては、NHKで時代考証を担当するスタッフがタイトルこそ出していないが、「やりすぎ」と指摘していたことをつけ加えておこう(大森洋平『考証要集 秘伝! NHK時代考証資料』)。

信長への怨みあまってイッてしまった光秀


大河ドラマの光秀役には印象深い俳優も多い。「真田丸」で徳川家重臣・本多正信に扮する近藤正臣は、三谷幸喜少年も見ていた「国盗り物語」で悲壮感あふれる光秀を演じてみせた。ここ最近では、「功名が辻」における歌舞伎役者の坂東三津五郎、「軍師官兵衛」における落語家の春風亭小朝と、伝統芸能の演者をあてるケースが目立つ。

だが、もっともインパクトを残した光秀俳優は、「利家とまつ~加賀百万石物語~」(2002年)の萩原健一ではないか。同作では晩年の信長(反町隆史)が自ら神を名乗って家族や家臣を戸惑わせるが、ショーケンの光秀は信長以上に何かに取り憑かれたようなイキっぷりを見せていた。安土城での家康(高嶋政宏)の接待中に信長の機嫌を損ね、「膳を下げろ」と言われたときには、あきらかにわざと膳をひっくり返しながらも「意図したことではございませぬ」としらばっくれる(本能寺の変の前話でのエピソード)。ここから光秀はまもなくして謀反におよぶわけだが、同作の本能寺のシーンは、信長と光秀が対峙するというあまり例を見ない設定となっていた。信長を前に光秀は積年の怨みつらみをここぞとばかりにぶちまける。その姿はまさに鬼気迫ると呼ぶにふさわしいものだった。

最新の学説にもとづいて本能寺を描くとするなら…?


「真田丸」では本能寺の変の原因と結果をわずかなカットで描いた。その手法は新鮮だったが、そこで採用された原因じたいは光秀の信長に対する怨みという、これまで何度となくドラマなどでとりあげられてきたオーソドックスなものであった。

ただし、この怨恨説は研究が進むにつれ史料的な根拠に乏しいとされつつあるらしい。これに代わって現在では、四国政策をめぐる信長と光秀の対立、あるいは光秀自ら天下を狙って謀反を起こしたという説などが有力な説としてあがっている。後者の野心説を踏まえてもしドラマがつくられるとするなら、光秀のキャラクターは従来とはまた違ったものになることだろう。

謀反におよんだ理由だけでなく、光秀は生年すら確定されていない。いちおう1528年生まれで本能寺の変後に55歳(数え年)で殺害されたとの説が定着しているものの、1516年生まれとする史料もある。この説をとれば1534年生まれの信長との年齢差は18歳、謀反を起こしたときには67歳とかなりの高齢だったことになる。ここから、老い先短いと悟った光秀が野心を抱いて信長を襲うといったストーリーを仕立てるあげることも可能ではないか。もしかなうのであれば、そんな大河ドラマもぜひ見てみたい。
(近藤正高)