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「わたしを離さないで」最終話。強者による弱者からの搾取という主題はどうなったか

2016年3月19日 09時00分 ライター情報:杉江松恋
そうすることで「ヘールシャムはわたしの頭の中に安全にとどまり、誰にも奪われることは」なくなるのだ。そうした「わたし」の物語として完結したからこそ、原作は状況の如何によらず読むことができる、普遍性を獲得したともいえる。

立派な人間の子供になりたい


このレビューの第3回で私は、『わたしを離さないで』という物語から「イタリアの作家が書いた、ファンタジー」を連想すると書いた。それは、カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』のことだったのである。
児童小説の古典として、ご存じの方は多いはずだ。心を持った人形のピノッキオは、本当に人間になりたいと願って旅に出たため、さまざまな危難に遭う。それらを乗り越えた末に彼は、望んだとおり本当に人間の子供になるのである。

この原稿を書くにあたってコッローディの『ピノッキオの冒険』を再読してみた。言うまでもないが、『わたしを離さないで』とはだいぶ違う小説だ。ピノッキオは、言葉を話す薪ざっぽうから作られた人形である。つまり、木の人形ではあるが、彼にはもともと命が宿っていたのだ。生命のありようそのものが曖昧な「提供者」とは、そこが決定的に違っている。コッローディがこの小説を書いた時代(1883年)は、イタリア半島が1つの国家として成立してからまだ20年しか経っておらず、社会は貧富の差が激しく、混乱していた。その中で、搾取される側に立つ者(ピノッキオ)がいかに状況に翻弄され、残酷な扱いを受けるかということを寓話の形でコッローディは書いたのだ。『ピノッキオ』と『わたしを離さないで』の成立基盤には大きな違いがあり、単純に比較することはできない。

ただ、両者を見比べて思うのは「自分とあの人たちとはどう違うのか」「なぜ自分はあの人たちではないのか」という焦げつく熱い思いは、やはり共通しているのではないかということである。ことにドラマ版にはそれを強く感じる。さらに言えば、「あの人たち」ではなく「この生き方」をするように生まれてきたのに、自分には「心」があるという悲劇だ。ドラマの中で耳に焼き付いて離れなかった、第6話の真実(まなみ)の叫びは、そのことを端的に言い表したものだった。心がなければどんな苦しみもなかったのに、なぜ心を持って生まれてしまったのか。ドラマ後半の陽光学苑の理念を巡る議論も、このことが焦点になった。

ここではすべてを挙げている余裕がないのだが、自我があるがゆえの悲劇を描いた作品を放送期間中はいくつも思い出していた。

ライター情報

杉江松恋

1968年生まれ。小説書評と東方Projectに命を賭けるフリーライター。あちこちに連載しています。

URL:Twitter:@from41tohomania

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