4月も下旬に差し掛かり、職場で新入社員の歓迎会を実施したという人も多いのではないでしょうか。それに合わせてメディアでは飲み会のマナーに関して、新入社員が気を付けるべきポイントを伝える記事も少なくありません。


ただ、そのようなマナー啓発記事を見る度に、私は「実に下らない…」と思ってしまいます。お店の中で大きな声で騒いだり、一気飲みをしたり等のような、大学生のサークルノリではいけないことも多いのは確かかもしれないですが、“社会人”の飲み会のマナーと言われているものの中には不要なものに限らず、社会にとって害悪となるものも多いと思うからです。


ビールのラベルを上にして何の意味があるのか


くだらないマナー・因習・忖度だらけの会社の飲み会は廃止にしよう

不要なものの例として真っ先に思いつくのが、「ビールを注ぐときはラベルを上にして注ぐ」というマナーでしょう。

ラベルを上にすると見栄えが良いというのは分からなくもないですが、ラベルを上にすることで何の効用を生むというのでしょうか? また、ラベルを下にすることで社会に何の損失が生じるというのでしょうか? 完全に「因習(マイナス面が多いにもかかわらず残っている古いしきたり)」です。

自分で注ぐ時はラベルの向きをいちいち気にしないように、誰が注ごうと気にしなければ良い話です。ラベルというのはビール会社が勝手にくっ付けたものですから、そのようなものにいちいち振り回されているのは馬鹿馬鹿しいと感じてしまいます。ラベルを下にされたくらいで不快感を覚える人は器が小さ過ぎまし、そんなことで心証を悪くする上司や先輩は仕事ができないと言っても過言ではないでしょう。



飲み会でお酌させるなら会社は残業代を払え


そもそも「お酌文化」自体が要りません。自分のことは自分ですれば良い話です。自分でできないことを人にやってもらうというのなら分かりますが、自分でできることをわざわざ代わりにやってもらう必要は一切ありません。

また、自分が飲みたい分だけ自分のグラスに注げば良い話です。おそらく自分のペースで飲みたい人も多いことでしょう。積極的にお酌をしてくる人に対して、わざわざ断るのも申し訳なく感じて、要らないのに注いでもらったという経験がある人もいるのではないのでしょうか。これでは両損の状態です。


さらに、お酌文化が行き過ぎると、新人・若手社員に対して「上司や先輩のグラスを空にしてはいけない」という義務が発生します。新人・若手社員にとっては神経を研ぎ澄ませて常にチェックを怠らないようにしないといけないのですから、飲み会はもはや仕事です。むしろ「飲み会のほうが仕事以上にストレスを感じる」という人も少なくありません。

飲み会でのお酌に給与は発生しませんが、明らかに仕事に関係のある行為とされているわけですから、「サービス残業」とも言えるでしょう。厚生労働省は「明示せずともお酌を推奨したのにもかかわらず、報酬を支払わない場合は残業代未払いに該当する」という方針を発表するべきだと思います。


女性のお酌で喜ぶ男性は性的趣向が歪んでいる


くだらないマナー・因習・忖度だらけの会社の飲み会は廃止にしよう

さらに、若い女性社員をお酌要因にする会社もいまだに少なくありません。トップマネジメント層が直接「こっちに来てお酌してくれ」と言わなくとも、ミドルマネジメント層に当たる上司や先輩が忖度して、「お前、お偉いさんの近くに行け」と指示することもあります。
本来、それらはセクハラに該当しますが、その認識が無い人がいまだにいるようです。

「男性として女性にお酌をしてもらったらやっぱり嬉しいじゃないか!」という反論が返ってきそうですが、そもそもごく一部の人を除いて、ほとんど女性が本心から喜んでお酌をしているわけではなく、「仕事だからやっている」「マナーとして求められていることだからしぶしぶやっている」に過ぎないのに、どうして注がれる人は嬉しいと感じるのでしょうか?

マトモな男性ならば本心でなければ嬉しいとは思いません。彼らが女性の本心がどのような状態にあるかは気にしていないということは、女性を女性性という記号としか見ていないことであり、つまり女性を同じ人として見ていないからだと思われます。女性の本心に関係無く、お酌されるとパブロフの犬のように無条件にヘラヘラできてしまうのは、決して男性だから嬉しいのではなく、歪んだ性的趣向を持ち合わせているから嬉しいのです。

もちろん心から「お酌がしたい!」という欲望を強く抱いている人だけが個人で勝手にやるのであれば問題ありません。ですが、「新人・若手社員や女性社員ならばお酌することが当たり前」という文化が社内に形成されることや、「お酌をする人は気配りができる奴だ」というくだらない評価基準が生まれることは決してあってはならないことです。



「ゴマすりレース」という愚かな争いをさせる無能な上司


飲み会における因習と化したマナーは何もお酌だけに限りません。たとえば、上司や先輩へのおしぼりの渡し方として、袋を破って少しだけ中身が出た状態で差し出すのがマナーだとする会社があります。ですが、そのまま渡して自分で破ったほうが明らかに作業の流れとして効率的です。

また、「おしぼりを偉い人に渡す新人・若手社員は気配り上手として偉い人たちから評価される」という社内文化があると、評価アップを狙おうとする新人・若手社員でおしぼり争奪戦になることもあるようです。合コンのサラダ取り分けにおけるトング争奪戦と全く同じですね。これはさすがに滑稽な光景ではないでしょうか?

もちろん悪いのは、新人・若手社員ではなく、上司や会社です。そんな「ゴマすりレース」を競わせる神経が信じられません。
健全な競争環境ではないですし、「ゴマすりスキル」を身につけさせる前に、しっかりと利益に繋がるスキルを身に着けることを競わせるべきでしょう。「ゴマすりレース」というのは人材開発の視点が著しく欠けている頭の悪い人たちのすることという当たり前の認識が、もっと広まって欲しいものです。


テーブルに劣化版ブッフェができるという愚かさ


飲み会がブッフェスタイルの場合でも、同じテーブルにいる人たちのために、同じ料理を多めに取ってくるべきだというマナーが存在します。つまり、そのテーブルで小さなブッフェが誕生するわけです。

ただし、それは単に規模が小さい「小規模ブッフェ」という意味合いだけではなく、「劣化版ブッフェ」と見なすことができます。というのも、ブッフェには多種多様な料理が用意されていることが多く、それらを全て均等にテーブルに持ってくることは難しいため、料理数が絞られてしまうからです。

また、料理を取って来る人はテーブルにいる人たちが何をどれだけ欲しいかということを正確に把握し、的確にチョイスできるわけでもありません。
欲しいものが無かったり、少なかったり、要らないものまで運ばれてきているから「劣化版ブッフェ」なのです。

結局のところ、自分で取りに行ったほうが自分の本当に欲しいものを欲しい分だけ取れるのであって、それがブッフェスタイルの良いところのはずです。そのメリットを丸潰しにするような劣化版ブッフェを作るよう勧めるマナーも、間違ったマナーと断定することができるでしょう。


くだらないマナーと因習が食品ロスも生んでいる


ブッフェではなく通常のスタイルの飲み会でも、新人や若手社員には大皿に乗った料理を小皿に取り分けることもマナーとして求められます。

ですが、これも場合によってはかなり非効率だと思います。たとえば、夜に炭水化物をあまり欲しくないという人もいるでしょう。均等に配分された量では多過ぎて、食事を残す人も少なくありません。逆に足りないと感じる人の中には、誰かが残している様子を見て、「あー俺はあれもっと食べたかったんだけどな」と感じたことがある人も多いのではないでしょうか?

そのような飲み会の食べ残しは、世界の食料援助量を大幅に上回る年間500万トン~800万トンにも及ぶ日本の食品ロスという地球規模の社会問題を生じさせている一因でもあります。食品ロスが起こっていても、くだらないマナーを優先するというのは、地球に生きる生き物としてあまりに愚かな行為です。食べるために生き物の命を奪うのではなく、くだらないマナーによって廃棄されているわけですから。

また、経営的な視点で考えても愚かな行為だと言えます。売れるかどうか分からない在庫を大量に仕入れて、結局は売れずに大量に廃棄するわけですから、無駄と損失だらけの構造です。仕事ができるという自負がある上司には、是非飲み会の注文に関しても個々の需要の分だけ的確に供給する「ジャスト・イン・タイム」を心掛けて欲しいと思います。

確かに、近年はこの飲み会における食品ロスがやや注目を浴びて、減らそうという取り組みを始めている人たちもいます。たとえば、長野県松本市では最初の30分と最後の10分は食事に集中しようという「3010運動」を展開しているようです。ですがそのような動きはまだ一部だけ。くだらないマナーや因習よりも資源の有効利用を優先させるという転換を日本社会全体で推進するべきでしょう。


からあげレモン問題は日本的「みんな一緒に」教育の失敗


くだらないマナー・因習・忖度だらけの会社の飲み会は廃止にしよう

マナーの話からはやや逸れますが、食べ残し問題や劣化版ブッフェ問題と同じで「個人のニーズがベースにあるべき」という原則を無視しているのが、「からあげにレモンをかけるか否か」問題です。「レモンかけて良い?」と言われれば、ハッキリ嫌だと言えない人も多く、レモンが不要と考えている人にとっては頭を悩ませている問題でしょう。

でも、好みは人それぞれということを考慮すれば、お寿司サビ抜きのように、小皿に乗せた自分の分だけレモンをちょっとかければ済む話。それなのに全体にレモンをかけるか全くかけないかというゼロサムの議論が展開されることに驚愕してしまいます。

これは「みんな一緒」を良しとする日本的教育の弊害でしょう。個別対応によって生じる弊害が大きい場合は、みんな一緒にしなければならないというのは分かりますが、弊害がさほど生じていない場合は個別対応をすれば良いだけ。それなのに何でも「みんな一緒」にしようとするから誰かしら不満が生じます。

教育に限らず、日本では団体行動の重要性がやたらと叫ばれますが、まずは個人行動が基本であり、利害が対立する場合や秩序の維持で欠かせない場合には団体行動も必要になるという、優先順位の逆転が必要だと思うのです。


飲み会が株主の利益を毀損している


日本における「飲みニケーション」は、長時間労働の温床の一つと言われています。仕事後の非公式な飲みの場で、お酒の力を借りなければコミュニケーションを深めることができないという人が多いというのがその背景にあるのでしょう。また、歓送迎会や忘年会のような公式の飲み会でも、開催が一度だけではなく、全社、部、課、係と何度も何度もやるケースも少なくないはずです。

さらに、単純に飲み会の時間が労働時間に加算されるだけに留まりません。たとえば、歓送迎会や忘年会の幹事に選ばれた人は勤務時間を使って、招待状やチラシを作成し、収容できる会場を調べて、景品や出し物を用意する等の作業をする会社もあります。

これらは飲み会という何の利益も生まないことに延々と人件費を投じているわけで、真っ当な感覚を持っている人ならば、「要る!?その作業」「いやいや、利益を生む仕事をしろよ!」と感じることでしょう。

他国に比べて日本は仕事の生産性が低いと言われていますが、このように「飲み会にかける時間」が分母を膨らませているというのもその要因の一つになっていると思うのです。本来は利益を生む活動に投じることができる人件費を、ドブに捨てているようなものですから、会社や株主の利益を毀損する行為とも言えます。
 
さらに労働者個人にも様々な負担を発生させています。たとえば、出し物を披露するために衣装代や練習のために借りるスタジオ代を自腹で払うケースもあります。時間的にも平日夜や休日の余暇時間を削られるわけです。これも仕事の一環としてやらされるならば、「サービス残業」ではないでしょうか?

もちろんやりたい人たちだけが自主的にするならば分かります。ですが、やりたくない人までやらされることや、直接的な指示が無くとも若手や部下が「忖度」してやらざるを得ない雰囲気にあるのは、もはやブラック企業であると思うのです。


飲み会をすればするほど会社は社員に嫌われる


これまで、何の利益を生まない非効率さが日本企業の飲み会には多過ぎるという話に加えて、飲み会のマナーが人々の間に様々な不快や不信、ディスコミュニケーションを生み出しているという側面も逐次紹介してきました。

効率的な仕事をするにはチーム内の信頼関係を醸成することが大事であるにもかかわらず、飲み会をすればするほどくだらないマナーが軋轢を生み、会社に対する「トラスト・ラック(信頼の欠如)」が生じるという矛盾が生じているのです。日本は世界で最も勤務先の企業に対する信頼度が低いという話は以前の記事でも紹介しましたが、飲み会文化の悪弊もその一翼を担っているのではないでしょうか?

何かにつけてすぐ怒る人を「沸点が低い人」と言いますが、もしそのような人ばかりならば、コミュニティ内が殺伐とするでしょう。マナーに関して無駄に高い基準を設けるというのはそれと同じことです。本来どうでも良いことをマナーとして設けて、それに沿っていないと不快に思う人たちがいるわけですから、「沸点が低過ぎる文化」が殺伐とした社会にしていると言えます。メンタルヘルスの問題にも大きく影響していることでしょう。


若者のお酒離れを指摘する上司はコミュ力が低い


近年、若者のアルコール離れが進んでいると言われます。それを「最近の若者は飲み会に参加しないな。お酒があまり好きではないのか」と勘違いしている上司も多いのかもしれないですが、実際は気の置けない同僚と飲むことは嫌いではないという若者は少なくありません。

つまり、アルコール離れには「会社の飲み会が嫌い」「アルコールではなくて、飲み会に出るとまとわりついてくるマナーや因習が嫌い」ということがかなりの割合を占めているわけです。

ところが、それに気が付けないマネジメント層は、それこそ部下とのコミュニケーション不足であり、コミュニケーション能力が欠如しているのではないでしょうか? 飲みニケーションに依存したせいで、「シラフコミュニケーション能力」を磨いてこなかったツケだと言えるでしょう。


クールビズを見習って「マナー緩和」を実施すべし


なお、私は何の知識も無くマナーに対して批判的な意見を述べているわけではありません。プロには遠く及びませんが、マナー検定やビジネスマナー検定の上位級も取得しており、おそらくマナーが大切だと唱えている人の多数派よりはマナーに関する知識はあると思います。その上で、マナーは極力減らすべきだと主張しているのです。

本来、マナーはコミュニティの中で円滑なコミュニケーションを図ることを目的に設定されるものです。その本来の目的から逸脱したものはただの因習であって、もはやマナーとは言うべきではないと思うのです。

もちろん日本的なお作法に関してもこの世から消滅するべきだとは思いません。ですが、着物文化のように、一部にその存在が残っていれば良く、日常生活や会社の場には無くても良いものばかりだと思うのです。近年、経済成長を目的とした規制緩和が叫ばれていますが、是非「マナー緩和」も進める必要があるのではないでしょうか?

その成功例と言えば、やはりクールビズでしょう。ネクタイをしなければならないという文化がそれまではあったものの、今ではノーネクタイでもマナー違反と見なされる機会は減っています。それくらい「マナー」というのは、本来無くても何の不便も生じないものばかりです。一刻も早く徹底的な削減と、それを可能にするリアリズムの普及が求められます。


マナーにうるさい人こそ使い物にならない時代へ


確かに営業職等の場合、くだらないと思われるようなマナーや因習であっても、顧客との飲み会において守らなければならないというケースもあるかもしれません。ただし、それならば顧客との飲み会だけそのようなマナーを守るよう指導すれば良いのであって、会社の人間に対しても常日頃からマナーや因習を徹底する「社内接待」は必要ありません。上司や先輩は若手にとっての顧客ではないからです。

日本には「お客は神様」という精神が少なくないですが、顧客に対して求められる振る舞いを上司や先輩にもさせるということは、「上司は神様」ということでしょうか? 思い上がりも甚だしいと思います。

一方で、今回のように既存のマナーに対してその問題点を指摘すると、「マナーすらも守れない人は社会人として使い物にならないだろう」という論点のズレた反論が必ず出てくるのですが、それは単なる思考停止です。

むしろ私としてはこのような非効率やディスコミュニケーションに疑問を抱かずに放置できてしまっている人こそ人材として使い物にならないとしか思えません。今後さらにグローバル化が進み、飲み会嫌いの若者が年を重ねてマジョリティーになる中で、因習に拘っている人のほうが使い物にならない時代が数十年年内にやってくるのではないでしょうか。

残念ながら会社の文化を決定付けているような人たちはこれを読んではいないかもしれません。でも、読んで頂いた人が一人でも「自分が決定権を握れるような立場になったらこんな殺伐とした飲み会文化は要らないって宣言したい!」と決意を改めて頂けると嬉しいです。
(勝部元気)