「ガキ使」がベッキーをタイキック、暴力を笑いにする番組はもう要らない。

「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(2017年12月31日放送)が、不倫騒動への禊という名目で、女性キックボクサーにタレントのベッキー氏の腰を強打させるシーンを放送し、インターネット上で大きな批判が起こっています。

私も実際にそのシーンを見てみましたが、許容範囲を逸脱した暴力行為で、気持ち悪くしかなりませんでした。
あと1年ちょっとで平成も終わるのにもかかわらず、いまだにこのような非人間的な行為が公共の電波で笑いになっているような社会の未熟さを正月早々痛感させられて、暗澹たる気持ちになりました。

この暴行を見て笑っている芸人も、スタッフも、視聴者も、スポンサーも、人として「全員OUT」だと思います。


嫌がる女性への暴力をたのしむ男社会の構図


暴力を笑いにするこの番組に対しては、もともと批判的な見方をする人は少なくなかったと思うのですが、様々な批判記事やネットの投稿を見ると、ベッキー氏の一件が大きな批判を浴びることになったのは、以下のような4つの点にあったのだと思います。

(1)ベッキー氏は芸人ではなく女性タレントに過ぎない点
(2)ベッキー氏は仕事が少なくなってしまった立場であり、仕事を選べない弱みに付け込んでいる点
(3)不倫への私的制裁として暴力を正当化している点
(4)若い女性が暴力を受ける姿を年配男性たちが取り囲み笑って楽しんでいる点


とりわけ、被害者がベッキー氏という女性タレントだった点は非常に大きいと思います。もちろん男性の芸人でも暴力の対象となることは本来許されないと思いますが、“体を張る”ことを仕事の一つとして想定している芸人とは明らかに異なり、女性タレントは本来腰を強打されることからかなり“縁遠い”仕事のはずです。

また、キックをしている人こそ女性でしたが、大きな叫び声をあげて嫌がる女性タレントが蹴られ、悶絶している姿を権力あるおじさんたちが笑って楽しむ姿は、女性への暴力で悦に浸る歪んだ男社会の一端としか思えませんでした。まるで彼らのレイプ願望を再現しているかのようです。


「その見方は飛躍し過ぎている」と思う人もいるかもしれませんが、実際にTwitterで検索すると、このシーンに対して、「ベッキーがレイプされているみたいで興奮した」のような投稿をしているアカウントがたくさんヒットします。そういう女性に対する歪んだ暴力欲を持ち合わせている人たちにとって高評価されるような歪んだ表現であることは事実なのです。

これを見て楽しむ視聴者も同罪です。刑法で禁じられているはずの行為を受けて苦しむ女性の姿を見て、楽しめてしまう自分の醜悪さをしっかりと認識してほしいですし、それを恥じて、悔い改めるべきでしょう。


ベッキー氏の「感謝」を真に受けてはいけない


一方で、ベッキー氏は暴行を受けたことを「タレントとして本当にありがたかった」と擁護する発言をしていることから、「本人が了解しているのだから問題無いではないか」という反論もインターネット上で相次いでいます。確かに、暴行罪(非親告罪)に該当する行為も、加害者に甘い人権軽視の日本では法律上「被害者の承諾」が成立してしまう可能性が高いと思われるので、法的には問題無いとされてしまうでしょう。

ですが、仮に彼女が「蹴られて最悪だった!被害届を出したい!」と思っていたとしても、それを口に出して言えるでしょうか? もちろんそんな“空気を読まない言動”は、タレントとしての印象を下げて、さらに仕事を減らされてしまうことでしょう。
同調圧力の強い日本の芸能界で生き残りたいと思った際、藁にもすがる思いの彼女ができる答えは一択しかありません。

仮に彼女に選択肢があるとすれば、「タレントとして本当にありがたかった」と言って芸能界に残るか、「蹴られて最悪だった!被害届を出したい!」と言って芸能界を去るかの二択です。もはやそれは「自由な意思による自由な選択」ではないのです。

Twitterでとあるアカウントが「ベッキーの「ありがたい」で真っ先に思い出したのは、虐待を受けた子どもも親をかばうという話です」と投稿をしていましたが、本当にその通りだと思います。本人がどのような意思を表明したかは問題ではありません。タレントが暴行を受けることが笑いになって仕事になる、そういう構造や文化自体が虐待の構造と一致しているから問題なのです。



メディアがイジメやハラスメントを面白いと教えている


次に、テレビ局の責任について指摘したいと思います。タレントの小島慶子さんはTwitterの投稿で、「何百万人が見るメディアでの笑いの表現は、作り手にその意図がなくても笑いの規範となり、職場や学校で再生産されます。それがいじめやハラスメントになることも。番組は合意の上の虚構でも、日常は終わりのない現実です。何を笑うのかの再考を」と述べていますが、本当にその通りだと思います。

私も幼い頃を思い返すと、「お笑いを模倣したイジメ」を受けている同級生がいました。その時に制止しなかった私にも加害構造を温存した責任があると思いますが、制止に至れなかった背景には、やはり「これはイジメではなく笑いなのだ」と無茶苦茶な言い訳の声が支配的だった面も大きかったからだと思うのです。


そもそも、人間が何を面白いと感じるかは生来決まっているわけではなく、環境からの「学習」による面が大きいと思います。テレビという公共性のある機関が「イジメやハラスメントをするのはとても面白いことで、被害者が苦しむのも面白いんですよ」と喧伝することがどれだけ膨大な加害者を産むか、その「製造物責任」をもっとメディアは自覚しなければなりません。


「殴られるのはおいしい」発言がイジメを広げる


「映画でも暴力シーンが描かれているではないか!」という反論もありますが、映画で暴力を振るう悪役はおおむね主人公によって制裁が加えられます。ところが、お笑いでの暴力は「面白い=良いこと」として描かれるのです。大事なのは暴力を描くことの是非ではなく、それをどう描くかです。

カンニング竹山氏は今回の騒動に対して、「おいしいと感じている」と批判の声に苦言を呈したようですが、彼らから“しっかり”学んだ一般人が「お前俺に構ってもらえておいしいだろ?」と暴行をふるっている現状をどう説明するのでしょうか? リアルとファンタジーの区別がつかない人はごまんと存在します。子供なら尚更です。


このように、「暴力は絶対に許されません。絶対には真似はしないでください」等のテロップも一切入れず、暴力を助長・流布させ、結果的に間違った学習をする人や彼らによるイジメや加害行為が続出しているわけです。日本のお笑い界とメディアが「製造物責任」を怠った罪は免れ得ないでしょう。


内輪ノリで衰退する日本のガラパゴスコンテンツ


松本人志氏は最近「ワイドナショー」などの番組にて、「自主規制が進んだせいでテレビが面白くなくなった。それがテレビ離れにつながっている」という趣旨の発言をして、テレビの現状を嘆いているようですが、彼の言う面白さが暴力や人権侵害や差別をすることなのであれば、テレビはもっと面白くなくすべきだと思います。

私はお笑いを子供の頃から一切見ない人間なのですが、その理由は日本のお笑い芸人の多くが暴力や人権侵害や差別をすることを笑いにしていて、本当に不快でしかないからでした。
大人になって彼らのトーク力や返しの上手さ等を知り、尊敬する部分も見えてきましたが、強烈な縦社会を構成し、暴力や人権侵害や差別に寛容である面が散見されるため、いまだに積極的に見ようとは思えません。

彼らが日本のテレビを牛耳って、「スピード違反をしなければドライブを楽しめない」ようなお笑いを続ける限り、暴力やイジメの構造に嫌悪を覚える人の割合が高い若者世代は、ますますテレビ離れを起こしていくことでしょう。

今ではネット配信が充実し、海外の面白いコンテンツを簡単に見ることができます。「見たくなければお前が見なければ良いだけ!」とのスタンスでメディアの責任を放棄して内輪ノリを選択する限り、日本のガラパゴスコンテンツ産業は世界との競争の中で衰退し続けることでしょう。

(勝部元気)