「#あたしおかあさんだから」の毒親と対にある「夫が長男」問題

絵本作家の「のぶみ」氏が作詞した『あたしおかあさんだから』という曲が、ネット動画配信サービスHuluの『だい!だい!だいすけおにいさん!!』で放送され、インターネット上で大きな批判を呼びました。

多くのTwitterユーザーが「呪いの言葉」だとして批判の声をあげていましたが、実際に歌詞を拝見すると、確かに酷い内容だと私も感じました。
以下のように、出産前の描写と出産後の描写を対比させて並べると一目瞭然で、出産前の生き方を自己中心的で身勝手な行動として批判的に描写し、出産後に子供に対して自己犠牲や滅私奉公をする母親の姿を賛美しているように捉えられます。

炎上した歌詞の内容


「(出産前は)好きな事して 好きなもの買って 考えるのは自分の事ばかり」
「(出産前は)ヒールはいて ネイルして 立派に働けるって 強がってた」

「あたし おかあさんだから 大好きなおかずあげるの」
「(あたし おかあさんだから)今は服もご飯も 全部子供ばっかり」
「(あたし おかあさんだから)テレビも子供がみたいもの」
「あたし おかあさんだから あたしよりあなたの事ばかり」

2017年5月には、ワンオペ育児に奔走する母親の映像に、「その時間が、いつか宝物になる」とメッセージを添えたムーニー(ユニ・チャーム)のCMが炎上したことを記憶している人も多いと思いますが、批判を受けているポイントはかなり似ているのではないでしょうか。

批判の声に対して、「ワンオペ育児をしている女性がいるというのは事実ではないか」という反論がありますが、これは事実そのものではありません。あくまで事実の一側面を切り取るという編集作業を加えたもの。ワンオペ育児に伴う様々な負の側面に目をつぶり、現状肯定的に描ければ炎上するのは今の時代必至だと思います。


ママ応援歌ではなく毒親賛美歌だ


もちろん、自己犠牲的な親の行動がすべて悪いとは言いません。中には親による子への無償の愛というのも存在はするでしょう。

ただ、子育てが思い通りに行かないのは当然のこと。
そうなった時、子供に対して「私はこんなにも自分を犠牲にして愛情を注いできたのに!」という気持ちが芽生えてしまう人が少なくありません。言わずもがな「毒親」です。

確かに、自己犠牲的な子育てをしても毒嫌にならない親もいます。でもそれは、「子供は親からのケアや愛情は必要だが、あくまで自分とは別の人格を有する人間だ」という自他境界の意識をしっかりと持ち、子を支配しようとせず、自己犠牲に対する見返りも求めず、本心からそれを楽しんでいる場合だけ。

そのような面に言及することなく、14回も「あたし おかあさんだから」とヒステリックに唱えて、自己犠牲を賛美するかのようなこの曲は、もはや「毒親讃美歌」とも言えるのではないでしょうか?

泣いている人たちは毒親化のリスクが高い


のぶみ氏はこの炎上騒動を受けて、2月5日に自身のFacebookを更新(現在は削除)し、「これは、元々 ママおつかれさまの応援歌なんだ 泣いてる人もたくさんいた」とコメントしましたが、私はこの歌詞を聴いて「感動した」「泣いた」と言っている人たちのことが非常に怖いです。

というのも、泣くことや感動することは、自己犠牲的な親の行動を「自ら楽しんでやっている」のではなく、「無理に頑張っている」ということの裏返し。彼女たちの「あたし おかあさんだから」が、「あんた あたしの子供なのに」に変わる日も、そう遠くはないでしょう。
そして、当然ながら子供にも大きな悪影響を及ぼします。

ただし、子供(とりわけ娘)から見た場合、毒親化した母親は加害者であることには間違いないのですが、第三者は必ずしも母親を批判していいわけではありません。母親自身もまた、家父長制や性別役割分業という社会の歪の中で生まれた被害者であることを忘れてはいけないでしょう。そういう根本的な問題を解決しなければ、この毒親問題は無くならないのです。


「#おまえおとうさんなのに」で分かる日本の少子化


さて、Twitterではこの歌の呪いに対抗するように、「#あたしおかあさんだけど」というハッシュタグが生まれ、「母親も呪いに縛られず自由に生きて良いのだ」というメッセージを発信する人たちが現れました。母親が孤立していた時代から、SNSで繋がりエンパワーメントし合うことができるように変化したのは、大変良いことだと思います。

ですが、そもそも母親への呪いが生まれる背景にあるのは、家父長制による強烈な性別役割分業とそれが生み出す母性神話です。
そして、シングルマザー等のケースを除けば、その対にはほぼ必ず家事育児をほとんどしない父親の姿があります。

そのようなこともあって、Twitterでは「#あたしおかあさんだけど」のアンサーソング的な意味を持った「#おまえおとうさんなのに」というハッシュタグが生まれ、投稿が相次ぎました。これらの投稿を見てみると、本当に酷いものばかりです。

たとえば、子供を放置してアニメやスマホゲームに夢中、子供のおむつを替えない、寝かしつけをしない、乳児が食べてはいけないものを知らない、子供の栄養バランスより自分の好き嫌いを優先、子供がかかる病気を知らない、幼稚園や保育園とやり取りを一切しない、子供の交友関係も知らない、子供の好き嫌いを知らない、常に飲み歩く、パチンコに行く、子供の前でタバコを吸う、子どもの前でおかあさんを怒鳴る(殴る蹴る)、家に生活費をいれない、養育費払わない等の投稿がありました。

この中には虐待として認定しても問題無いケースも数多く見られます。なぜ、日本で少子化が進むのか疑問に思っている外国人記者も多いかと思うのですが、この「#おまえおとうさんなのに」のハッシュタグを見れば一目瞭然でしょう。
夫の休日の家事・育児時間が短いほど第2子以降の出生は少なくなる傾向を示した厚生労働省の調査が示しているように、「父親不在」が少子化の原因であることは間違いありません。

家父長制が生む毒親とガキ夫による負の連鎖


さらに彼らの問題は育児をしないことに留まりません。自分が食べたものや飲んだもののゴミは放置したまま、自分の食器を片付けない、洗濯したい服なのに洗濯機の中に入れないでそのへんに放置、妻が片付けてくれるのが当たり前のことだと思っている、何度注意しても直さない等、自分のことすらまともにできず、妻が夫をお世話しているという投稿が散見されました。

そのような状況にもかかわらず、「自分は家事をしている」という妄想を抱いている男性は少なくありません。たとえば、「家事は何かやっていますか?」という質問に対して、「ゴミ捨てやっています!」とドヤ顔で話す男性もいますが、彼らがやっている行為は、「ゴミ捨て」という一連の業務の最終工程である「完成したゴミ袋を屋外に移動」のみに過ぎません。分類ごとの収集日を把握することや、各部屋から回収すること等の工程は結局妻が行っているケースが少なくないようです。

このように、親以前に、大人として当たり前にするべき日常の生活スキルを身につけず、家族を持ってしまった男性があまりに多いことに唖然としてしまいます。


でも、彼らの母親もまた毒親の可能性が非常に高いと思うのです。息子は献身的な母を見て、「女性は耐え忍んでくれる存在なのだ」「身の回りの世話をやってもらって当然だ」と思い込みます。そのせいで、家事育児をさっぱりやらず、注意すると拗ねる、いわゆる「ガキ夫」が完成します。そして彼らを上手く嫌いになれない妻たちは、行き場の無くなった自分の幸福感を母性神話に乗せて子供たちに自己犠牲してしまう…

このような家父長制が生み出す「毒親とガキ夫による負の連鎖」をどこかで止めない限り、不幸の種は親から子へと延々に受け継がれて行ってしまうことでしょう。


仕組みを図解


そして、このようなケースでは、しばしば「夫が長男だ」「大きな子供がいる」というたとえをする妻がいますが、これこそまさに日本の少子化を如実に表している表現ではないかと思うのです。というのも、本来は子育てに向けることのできるはずの妻の余剰リソースを、夫が自分で奪っているわけですから。
これでは妻が抱えることのできる子供の数が少なくなるのは当然です。分かりやすいように図にしてみました。

「#あたしおかあさんだから」の毒親と対にある「夫が長男」問題


これを以下の昭和の「標準モデル」と比較してみましょう。当時の父親は「24時間戦えますか?」の世界で、今よりもさらにモーレツな働き方をして、仕事にフルコミットしています。妻も夫をケアしていましたが、働くとしても103万円以下に抑え、持てるリソースはなるべく子供に投下していました。

「#あたしおかあさんだから」の毒親と対にある「夫が長男」問題


妻は歌の歌詞のように自分の娯楽を削り、睡眠時間も世界最低レベルにまで削っていたことはこの時代も変わらないので、理想形とは言い難いですが、システムとしての安定度はあったのだと思います。

ですが、もちろんこれに回帰するべきではありません。以下のように、生産性向上等で長時間労働をさらに削減し、夫も家事育児に注力できるようにして、リソースを妻と夫が等しく子育てに投下できることが、これからの理想の形だと思います。

「#あたしおかあさんだから」の毒親と対にある「夫が長男」問題


日本はこの理想形への歩みに関して、ヨーロッパの先進国に大きく後れを取っていることは言わずもがな。会社等の理由でどうしても役割分業を捨て切れない夫婦も多く、自分たちだけではできることも限られているかもしれませんが、この方向に向かって歩み続ける意思を持つことだけは絶対に必要ではないでしょうか?
(勝部元気)