一昨年7月、全日本プロレスの代表取締役社長に就任し、現役レスラーとしても第一線で闘い続けている秋山準(じゅん)が、24年にわたるプロレス人生を赤裸々に明かした。

前編記事(「四天王の中に放り込まれて、ついていくのに必死だった」)では、若手時代の苦悩やノア移籍後の躍進を振り返った秋山。
後編は、三沢光晴さんとの最後の会話、パニック障害との闘い、そして“王道”の再生への決意を語る!

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ノアは2004年、05年に東京ドーム大会を開催。その人気は新日本を凌駕(りょうが)するほどだったが、以降、その勢いに陰りが見え始める。

09年、ノアは最大の逆風に見舞われる。まず3月に日本テレビの地上波中継が打ち切られた。そして6月13日の広島大会でのタッグマッチ(三沢光晴&潮崎豪vs齋藤彰俊&バイソン・スミス)の試合中、齋藤のバックドロップを食った三沢が心肺停止状態に陥り、頸髄離断(けいずいりだん)で死去。46歳での早すぎる死は、大きな衝撃と波紋を呼んだ。


「三沢さんはどんなケガをしていても休まなかった。キツかったと思いますけど、『大丈夫だよ』ってずっと言ってる人でした。それが亡くなる半年くらい前に、『社長、大丈夫ですか?』って聞いたら、『いや、ちょっとキツイな』って初めて言われた。

最後に三沢さんと言葉を交わしたのは、広島大会の前日の大阪でした。僕は腰の状態がひどかったんで、朝、ブロック注射を打ちに東京に戻るところでした。ホテルを出るときに、ちょうど三沢さんが飲んで帰ってきたんです。


『大丈夫か?』『いや、今から東京帰ってブロック注射してきます』『ちゃんと見てもらえよ』。言葉としてはそれが最後です。三沢さんは首の調子が悪くてほとんど眠れなかったらしくて、飲まざるをえなかったみたいです」

三沢の首は、とてもリングに上がれる状態ではなかった。同時に秋山も、GHC王者でありながら、腰椎椎間板ヘルニアで歩行するのも困難な重症だった。

「東京で治療した後、試合ギリギリで広島に入って。試合を終えて戻ってきたときに三沢さんが(試合の出番を)待っていたから、ちょっと軽く会釈したんですが、言葉は交わしてないです。


で、僕が(試合後の控室で)腰を治療しているときにみんなが走り回っているのを見て、『なんかあったの?』って。僕は動けなかったので、這(は)ってリング近くまで行ったんですけど」

あの大混乱のリング上で、秋山の姿だけ見当たらなかった理由がわかった。這ってリングを目指したが、途中で控室に連れ戻されたのだという。

「その後、僕も救急車で病院に行ったんです。またブロック注射を打っても痛みがひかなかったんで、静脈注射を打ち、やっと痛みがひいた。病院を出た後、三沢さんが亡くなったと聞いて、『嘘だろ』って。


その後、次の試合どうするかっていう話になったんですが、こんな状況のときに自分は何もできない、チャンピオンとして申し訳ないっていう気持ちでいっぱいでした」


大黒柱の三沢が亡くなり、小橋建太は2012年12月に引退を表明。もはや秋山はノアに在籍している意味を見いだせなくなっていた。

13年1月、全日本参戦を表明。同時期にノアを退団した潮崎、金丸義信、鈴木鼓太郎、青木篤志を率いて古巣に復帰した。

「自分が最後に終わる場所はどこかなって考えたら、やっぱり馬場さんの全日本でした」

秋山らを迎え入れて、一時期、全日本の選手層は新日本を凌駕するほどに充実した。ところが、新オーナーの白石伸生氏による数々の問題発言によって、経営サイドと選手間に埋めようのない溝が生まれる。
大多数の選手が武藤敬司と共に新団体WRESTLE-1へと移籍してしまった。

秋山が覚悟を決めて新社長に就任した後も、潮崎、曙、鼓太郎、金丸が相次いで退団していった。昨年末はどん底を味わった。それでも、全日本には新たな戦力、若手選手が育ち始め、今年に入ってようやく春が見えている。

「昨年末あたりは、もう本当にダメかと思いました。嫁さんには言いましたよ、『いや~、俺、キッツイよ』って。
そうしたら、『辞めるのは簡単だけど、選手の子供とかどうなるの?』って。『確かにそうだよな…なんとかしないとな』っていう会話がありましたね。

僕にも娘がいるし、いつも子供のことを考えてしまうんですよ。俺が辞めちゃったらこの子どうなるんだろう?と思ったら、辞められない。

社長になったときは正直、すごい(会社に)負債があって、へたしたら数ヵ月で自宅がなくなるっていう状態だったんです。だけど嫁さんは『まあ、しょうがないでしょ』って言う。『いや、しょうがないって、おまえ、家なくなるかもしれないんだよ』、『アパートに住んだっていいじゃない。私も仕事行くし』って、全然悲壮感がないんですよ。だから僕、深刻に考えるのがアホらしくなってきて(笑)」


家族の話が出てきたのは意外だった。だが、秋山は、もうひとつの敵とも闘い続けている。

28歳のとき体に変調を来し、「パニック障害」と診断されたのだ。こちらも家族の支えに助けられてきた。

「最初は風呂に入っているとき、急に息苦しくなって激しい動悸(どうき)がして、心臓発作かと思ったんです。発作が出るのは、例えば新幹線とか飛行機とか密閉した空間。でも、飛行機に乗らないわけにいかないじゃないですか。血が出るほど内股をつねって、その痛みで発作をごまかしたこともあります。

試合中に発作が起きたこともあって、それが一番怖いですね。『来る! ヤバい』って思ったら負けというか、どんどん苦しくなるんです。『大丈夫だ』と思わないといけないんですけど、なかなかそのコントロールが難しいんですよね。

パニック障害に向き合うときも、嫁さんの存在は大きかった。急激に汗が噴き出してくるときもあるんですよ。例えば、こういう取材中に大汗かいてたらイヤじゃないですか。でも嫁さんは、『汗かいたら、タオルで拭けばいいじゃない』って。そりゃ、そうなんですけど(笑)」

家族の話をするときの秋山は柔和な笑顔を見せる。経営者としての顔は厳しくもあり謙虚でもある。しかし、プロレスラー秋山準は違う。暴れん坊の秋山が顔を覗(のぞ)かせる。

「厄介なことに、まだ選手としての欲が結構あるんです。試合が始まると、『おまえらなんかに負けるか、この野郎』っていうのがある。『おまえらまだ全然だよ、誰が俺に勝つんだよ?』って。体力面は負けてるかもしれないけど、気持ちでは負けていないんですよ」

気持ちの強さ。それが秋山の最大の魅力。言い換えるなら反骨心。だから、未来の全日本を担う選手たちへの注文だって厳しい。

「今の若い選手ってマジメですごくいいコたちなんです。だけど、僕みたいにガツガツしているヤツがいない。僕は若いヤツにいつも言うんですよ、『俺はプロレス界でもそんなに大したことないからね。大したことないヤツにおまえら言われてるんだよ。プロレス界、俺の上に何人いると思ってんの?』って。

俺を超えるためには俺の考えを超えないといけないし、俺の練習したものを超えないといけない。もっと大きいこと考えろって。チマチマ細かいこと考えないで、俺を一回ホントに困らせてみろよって」

やはり受け継がれていってほしい。亡き三沢社長を大いに困らせながら、プロレス界を活性化してきた秋山。そんな自分に続く破天荒な存在の出現を待ち望んでいるのだ。

●秋山準(あきやま・じゅん)


1969年10月9日生まれ、大阪府和泉市出身。三冠ヘビー、世界タッグ、GHCヘビー、GHCタッグなど多くのタイトルを戴冠。現在は社長レスラーとして、第一線で熱い闘いを続けている。全日本プロレスは11月27日(日)に「カーベルpresents 全日本プロレス in 両国国技館」を開催。そのほかの大会など最新情報は公式サイトまで

(取材・文/金沢克彦〈元『週刊ゴング』編集長〉 撮影/保高幸子 試合写真/平工幸雄)

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