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話題のノンフィクション『真説・佐山サトル』の著者・田崎健太氏(左)と初代タイガーマスク・佐山サトル氏に、水道橋博士氏が直撃。佐山氏が背負う「宿命」とは?

人気絶頂でのタイガーマスク"電撃引退"、UWFにおける前田日明との"不穏試合"、自身が創設した総合格闘技「修斗」との訣別......初代タイガーマスクこと佐山サトルには、多くの謎がある。

その真実に迫ったノンフィクション『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(田崎健太・著)が話題だ。

芸人であり、『藝人春秋』シリーズをはじめ優れたノンフィクションの書き手でもある水道橋博士氏が、佐山氏、田崎氏に本書の製作秘話を聞き、佐山氏の素顔に肉薄する鼎談。

前編では、佐山氏自身も詳しくは知らなかった父親の戦争体験や、従来のプロレスを飛び出し理想の格闘技を志した経緯を語った。そして、佐山氏が背負う「宿命」とは――。

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博士 本書は、UWFでの前田日明戦(1985年9月2日 大阪臨海スポーツセンター)を掘り下げています。"不穏試合"として語り草になっているこの試合には、さまざまな解釈がなされてきました。

田崎 僕はこの試合のビデオを何回も見直しましたが、"シュートマッチ"と言われていることが理解できなかったんです。急所蹴りによる前田さんの反則負けという結果でしたが、途中で前田さんが"亀"のポジションになるという不可解なシーンもあり、理解できないので前田さんに2回取材したんです。前田さんの言い分を佐山さんにぶつけ、佐山さんにうかがった話を前田さんにぶつけていきました。

博士 佐山さんには佐山さんの思想があり、前田さんには前田さんの思想がある。それに加えて金銭面を含めた誤解もあって、ふたりの主張が実に対照的ですよね。

田崎 もう、論点が違うんです。

ふたりは全く違う方向を見ていて、異なる思想が交錯した結果、ああいう不恰好な試合になった。佐山さんとUWFとの軋轢を象徴する試合だったと思います。そして、佐山さんはこの試合のあと、口をつぐんだ。自分は格闘技を目指す人間だから、口をつぐんで去ったほうがUWFのためにもいいと思って。

佐山 よくわかってくれていますね(笑)。

博士 お互い60歳前後になった今、33年前の試合を振り返って、真意が明らかになった。

しかし、すべてをつまびらかにするのはよくないという意見もある。幻想は幻想のままであったほうがいいという、その考えも正しいと思いますよ。ただ、プロレスには謎解きをする楽しさもあって、活字プロレスはひとつのマーケットになっている。

田崎 その先鞭をつけた本が、佐山さんの『ケーフェイ』(85年)ですからね。「ケーフェイ」というプロレスの隠語を書名にして、プロレスの裏側を暴露したと、業界からバッシングを受けましたが、実は佐山さんは出版するつもりはなかった。あれを書いたのはターザン山本さん(『週刊プロレス』元編集長)だという定説があったのですが、ターザンさんにしつこく問いただすと、実は自分がしゃべったことをイラストレーターの更科四郎さんが書いたもので、自分が書いたものじゃないと言うんです(笑)。

佐山 当時、更科さんと山本さんとはよく会っていて、いろんな話をしていたんです。それがある日、本にしないかと。僕は反対したんですけど押し切られちゃって、しゃべっていたことがそのまま書いてあるのでビックリしたんです(笑)。

ビートたけしも刮目していた最初期の総合格闘技。創始者・佐山サトルが背負うタイガーマスクの「宿命」

博士 プロレスの一番奥底にある、語るべからざることが、不慮の事故のように世に出る。ターザン山本という、ある意味、無責任な人が起こす事故によってジャンルは変わっていく。それこそレフェリーのミスター高橋さんが出した本(『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』)も、プロレスがエンターテインメントの方向へ舵を切るきっかけになりましたからね。

田崎 佐山さんは84年に「タイガージム」を、翌年に「スーパータイガージム」を開き、シューティング(のちの修斗)の選手を育成し、86年からは「プリ・シューティング大会」を開催していきます。博士はその時代の修斗をどう見ていましたか?

博士 僕は第一次UWFの追っかけでしたから、佐山さんの新たなムーブメントも追いかけていました。時代の端境期に、既存のジャンルが溶解していって新たなものが生まれる。それを目の当たりにしている興奮がありました。リングの形状や試合のルールがどんどん変わっていったりね。「プリ・シューティング大会」の会場で(ビート)たけしさんに偶然会ったこともありました。

たけしさんは、「人って闘ったらこういう風になるんだ」と不思議そうに言っていましたよ。

田崎 真剣勝負の試合がどういうものになるのか、誰もわかってない時代ですからね。

博士 90年代には、埼玉県大宮にあったスーパータイガー・センタージムにもよくロケで行きました。東京の外れにある広大な施設で選手を養成する、まさに"虎の穴"。でもそれは、やはりタイガーマスクの栄光があるがゆえに与えられたギフトじゃないですか。

田崎 そうですね。たけし軍団にはたけしさんという太陽がいたから、博士も飛び込んでいったわけじゃないですか。修斗にもタイガーマスク――佐山サトルという太陽がいて、その熱を受け取った若者たちが弟子入りして、強い選手も生まれていった。そういう類似性があると思うんですけど、一方で組織の在り方に違いがあって。たけし軍団は割と先輩後輩の上下関係が厳しくて統率が取れていた。けれど、修斗は佐山さんも若かったし、上下関係を作らなかったんですね。それが、佐山さんが修斗を離れざるを得なくなる一因になったと思います。

佐山 なるほど。確かに、全員平等に扱ったのが、おかしくなった原因だったという結論に今至っているんです。こっちを立てると、そっちも立てないといけない。それではおかしくなってしまうというのは、つくづく思いますね。

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博士 その意味では、プロレスの世界のほうが僕ら芸人の世界と共通していますね。上下関係がしっかりしていて、長幼の序をわきまえる文化がある。どんなに早く売れたとしても、序列は変わりませんから。

佐山 プロレスラーは下積み期間が長いので、すごく礼儀正しい人が多いんですよ。一方で格闘家というのは「自分が自分が」というのが強い。それも必要ではあるけれど、修斗では人間関係を教えてこなかったという反省があるんです。

博士 だからこそ、現在、武道の精神性に傾倒しているわけですね。プロレスラーというのは大法螺を吹きながら自分の見世物感を出していく職業に見えますけど、実は長い下積み時代にしっかり人間修行をしているんですよね。

田崎 佐山さんの先輩だった小林邦昭さんが言っていたのは、佐山さんは付き人として(アントニオ)猪木さんのちょっとした機微を捉えたりとか、よく気が利くので(山本)小鉄さんに可愛がられていたりとか。そういう側面は今の佐山さんにもうかがえますね。

佐山 いろんなことをよく掴んでますね。くすぐったいところまで(笑)。

博士 やっぱり若いときに忠誠を誓うことは大きいですよ。修斗時代、佐山さんは弟子に「お前らは自分のことを"佐山先生"だと思うのか、"佐山さん"なのか?」と問うことで、忠誠心を試すこともしていますね。

佐山 「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という言葉は当時から知っていましたが、敢えてそれをやらざるを得なかったんですね。

田崎 お笑いの世界でも、師匠が理不尽なことを言っても弟子は従う。いいか悪いかは別としても、師弟の間では根本で筋が通っている。佐山さんはそこに徹しきれなかったと思うんですよ。

博士 とはいえ、相撲のように部屋制にして、各部屋で争うという発想など、佐山さんが修斗の初期から考えていた構想は実現し、総合格闘技はいまや世界中で人気スポーツとなっている。修斗から離れているとはいえ、ご自身の理想は実りを結んでいるとは思いませんか?

佐山 思いたいですけどね。ただ、そういうものは物理的な面であり、精神的な面がもっと育ってほしいという思いはあります。今の格闘技界は拝金主義というか、興行優先になっている。そうではない、世間から格闘家というものは素晴らしいと言われるような武道を創っていきたいですね。

博士 武道でありたいという思いを表現するため、シューティングに「修斗」という漢字を当てはめた。武道へのこだわりは、この本にもしっかり描かれていると思いますよ。

佐山 本当にありがたいと思います。

博士 これまで黙して語ってこなかった佐山さんの本意を田崎さんが代弁した。取材対象者の名誉を守る、あるいは回復するというのは、取材者にとっての喜びですよね。

田崎 まさにそうです。佐山さんは自分の偉業を語らないので、それを噛み砕いてちゃんと伝えないといけないっていうのは、ある時期から強く感じました。佐山さんが総合格闘技を創ったという事実を、特に今の若い選手たちに知ってもらえたらうれしいですね。

佐山 ありがたい。田崎さんは僕の性格をわかっている。僕は自分を抑えつけてしまうんですよね。新日本プロレスでタイガーマスクをやっていたのは2年4ヵ月です。格闘技の世界ではもう何十年もやっています。だから僕の本当の姿というのは、格闘技の世界にあるんですね。ところが、世間の人はみんな僕をタイガーマスクとして見る。先日も、タクシーの運転手さんにタイガーマスクというのがバレて。甥っ子が総合格闘技をやっているんですよ、と話しかけてくるんです。総合格闘技って僕が創ったんですよって言ったら、ええ~って驚いて。やっぱり世間には知られていないんだなって。

博士 やはり、タイガーマスクが発していた輝きというのは、背負い続けなくてはならない宿命なんですね。

佐山 それだけあの2年4ヵ月というのはすごかったんだと思います。それは自覚しなきゃいけないと思いますし、タイガーマスクのファンを裏切ったらいけないと思いますね。

ビートたけしも刮目していた最初期の総合格闘技。創始者・佐山サトルが背負うタイガーマスクの「宿命」
■『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』
集英社インターナショナル 2400円+税

●佐山サトル(さやま・さとる)
1957年、山口県生まれ。74年、新日本プロレスに入門、海外修行を経て81年、タイガーマスクとなり一世を風靡。UWFを経て、総合格闘技を創始し、85年、「シューティング(修斗)」を創立。『バーリ・トゥード・ジャパン』の成功で軌道に乗るも、後に離脱。99年、「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。05年、「リアルジャパンプロレス」を設立、初代タイガーマスクとしてリングに上がっている。16年、日本精神文化の原点回帰を目指して「一般社団法人日本須麻比協会」を設立

●水道橋博士(すいどうばし・はかせ)
1962年、岡山県生まれ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、浅草フランス座での地獄の住み込み生活を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。幅広い見識と行動力から守備範囲は芸能界にとどまらず、スポーツ界、政界、財界にまで及ぶ。『藝人春秋』シリーズなど著書多数

●田崎健太(たざき・けんた)
1968年、京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。99年末に退社し、ノンフィクション作家に。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』、『ザ・キングファーザー』、『球童 伊良部秀輝伝』、『真説・長州力 1951-2018』、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』、『ドライチ ドラフト1位の肖像』など

撮影/タイコウクニヨシ