平凡社 世界大百科事典

インターナショナル

もともとは18世紀末年に使われ出した英語の形容詞で〈国際〉と訳されているが,名詞としてはふつう国際労働者協会International Working Men's Associationおよびその後継者ないし類似の国際組織をさす。

国際労働者協会(第一インターナショナル)

1864年9月28日,ロンドンのセント・マーティンズ・ホールで開かれた国際労働者集会で創立された。この集会は,2年前から交流を進めていたイギリスとフランスの労働組合活動家が,ストライキの際の相互連帯とポーランド革命支援を念頭に置きつつ招集したものだったが,ドイツ,ポーランドからの亡命者なども参加した。集会では,労働者の国際的な協会associationの設立とその規約を作成する〈臨時中央評議会〉の設置が決議された。

 評議会(1866年以降,総評議会)の一員に選ばれ,新生の国際組織の性格づけに決定的な影響を与えたのは,その集会に招かれて出席していたドイツからの亡命文筆家マルクスだった。64年11月,臨時中央評議会が満場一致で採択した二つの基本文書はいずれもマルクスの筆になる。第1は〈創立宣言〉で,1848年以降,商工業が未曾有の発展を示したにもかかわらず労働者大衆の貧困は減少しなかった事情を述べたあと,〈明るい面〉として工場法と協同組合運動の進展を挙げ,さらに政治権力の獲得が労働者階級の義務となったことを指摘し,《共産党宣言》と同じく〈万国のプロレタリア団結せよ〉と結んだ。第2は〈暫定規約〉(1866年の第1回大会で〈一般規約〉として承認された)である。その前文は〈労働者階級の解放は労働者階級自身の手でかちとられなければならない〉と明言し,それが〈あらゆる階級支配の廃絶をめざす闘争〉であり,〈近代社会が成立しているすべての国々におよぶ社会問題〉であると述べた。これは1860年代に入ってヨーロッパ各地で自立の傾向を強めつつあった労働運動に共通の課題を示して相互連帯を促す意図を示してはいたが,教条的な組織化を目ざすものではなかった。事実,支部組織はまだ国単位でなく,もっと小さな多様なグループから成っており,個人加盟も認められていた。

 加盟者は,創立当初は,イギリスを除くと少なかったが,1867年の経済恐慌に続くストライキを通じてフランス(パリ,リヨン,マルセイユなど),ベルギー,スイスで組織が広がり,イギリスでは69年には28の労働組合が加盟するに至った。さらにイタリア,スペイン,ポルトガル,オランダ,デンマーク,アメリカに支部があった。オーストリア・ハンガリー,とくにドイツではいち早く社会主義政党が形成されつつあったが,結社法のため,団体加盟には至らず,むしろベッカーJ.P.Becker(1809-86)を中心とするジュネーブの〈ドイツ語支部〉の活動が活発だった。こうした支部は,各地域の運動の伝統と状況によりさまざまな性格をもっており,そのことは1866年から69年まで毎年,ジュネーブ,ローザンヌ,ブリュッセル,バーゼルで開かれた大会の議論にも反映していた。とくにフランスのいわゆるプルードン主義者の発想は,労働者の社会的解放にとって政治的自由の実現が不可欠だとするマルクスの考え方とは異質だったが,組織が地理的に広がるにつれマルクスの支持者が多数を占めていった。第3回,第4回大会では,鉱山,鉄道,耕地,森林などは社会の共同所有たるべきだという決議がなされ,協会の資本主義的私有財産制に対する批判的立場が鮮明になった。70年の普仏戦争に際しては,総評議会はフランス,ドイツの労働者が平和と友好を呼びかけ合ったことを高く評価し,ナポレオン3世の没落を歓迎したが,フランスの労働者がさらに新政府の打倒を試みることには否定的だった。しかし,71年,パリ・コミューンの蜂起が起こると,マルクスは《フランスにおける内乱》(1871)を書いて断固たる支持を与えた。そして協会を,労働者階級の政治権力獲得をめざす強固な政党組織に変えようとした。他方,ジュラ地方(フランス東部),イタリア,スペインなどの支部は,国家を否定するバクーニンの強い影響もあって,〈反権威主義〉を唱え支部の自治を擁護した。両派は激しく対立し,3年ぶりで開かれ,初めてマルクスも出席した72年のハーグ大会でバクーニンらは除名された。だが,協会は,諸政府の弾圧にさらされただけでなく,労働運動が国ごとに編成されていく傾向に対応できなくなっていたのである。それを洞察したマルクスは,同大会で総評議会のニューヨーク移転を決議させ,事実上,協会の歴史に終止符を打った(正式解散は76年)。

 除名された〈反権威主義派〉は,73年ジュネーブで,ベルギー,オランダなどからの代表を加えて第1回大会を開き活動を続けたが,それも77年の第4回大会(ベルビエ)が最後になった。

第二インターナショナル

1880年代になると,すでに息を吹きかえし労働組合組織の時代を迎えたフランスの労働者と,〈新組合運動〉が展開しつつあったイギリスの労働者が中心となって,具体的な労働条件の改善,とくに8時間労働日の実現をめざす国際会議が開かれるに至った。その3回目が89年7月,パリで開催されたが,主としてフランス社会主義運動内部の対立から,それまで主導権を取ってきていた〈ポッシビリスト(可能派)〉(分権的な組織論に立ち,ブルジョア政党との連携も辞さず可能な改良をめざす)の大会と,エンゲルスが支援した〈マルクス主義者〉の大会が,同時並行して開かれることになった。19ヵ国,約180名の外国代表を迎えた後者のほうが,国際的には重みがあり,これが事実上,第二インターナショナルの創立大会となった。しかし新しい国際組織は,国際労働者協会の後継者をもって任じてはいたが,正式な名称も規約もなかった。1900年の第5回大会以降,国際社会主義大会と称するようになったが,第三インターナショナル(コミンテルン)の動きが胎動し始めてから,それと対比的に第二インターナショナルと呼ばれるようになり,それが一般化した。このパリ大会では,なかんずく,8時間労働日要求のために,翌1890年5月1日を期して国際的に示威運動を行うことが決められた(ドイツ社会民主党をはじめとする人びとと,反議会主義的でゼネストを重視するオランダのドメラ・ニーウェンハイスDomela Nieuwenhuis(1846-1919)のような,いわゆる〈アナーキスト〉との対立であり,この問題は,ロンドン大会で〈アナーキスト〉の排除決議が採択されてようやく決着がついた。それは,1890年の帝国議会選挙に際し得票率では早くも第一党になり,同年〈社会主義者鎮圧法〉が失効してから急速に党勢を伸ばしたドイツ社会民主党が,国際的な場で主導権を取っていく過程でもあった。それに伴いマルクス主義が第二インターナショナルの主流を形成した。さらに,1900年には,その年パリで開かれた第5回大会の決議に基づいて,各国代表2名から成る国際社会主義事務局Bureau Socialiste International(BSI)が設置され,その執行委員会の機能をバンデルベルデÉmile Vandelverde(1866-1938)らベルギー代表団が果たすとともに常設書記局がベルギー労働党本部のあるブリュッセルの〈人民の家〉に置かれることになった。事務局は錚々たる人物から成り,14年7月までに16回の会議を開いて重要問題を議した。書記局も,とくに1905年にユイスマンスCamille Huysmans(1871-1968)(ベルギー)が書記長になってから情報の収集伝達に大きな役割を果たした。

 こうして第二インターナショナルは常設の制度となったが,それでもなお,事情を異にする国ごとの組織のゆるい連合体であり,事務局の権能も加盟組織間の連絡調整にとどまっていたところにその特徴がある。主力は,ドイツ,フランス,イギリス,オーストリア・ハンガリー,ベルギー,オランダで,亡命者によって代表されたロシア,ポーランドも重要な存在だった。そうしたヨーロッパの約20ヵ国に対し,他の地域からはアメリカ,オーストラリア,アルゼンチンなどごく少数であり,アジアでは日本だけであった(日本は1901年加盟,片山潜が事務局員に選ばれ,第6回大会に出席。第7回大会には加藤時次郎が参加したが,10年の〈大逆事件〉以降,関係は名目的にすぎなくなった)。

 第二インターナショナルは,1900年以降も引き続き社会政策や労働組合に関する諸問題に取り組み,また,世界各地の圧政に対し抗議の声をあげたが,帝国主義列強間の対立が激化する時期にあって,反戦勢力として大きな存在になっていった。日露戦争中に開かれたアムステルダム大会(1904)では片山潜とプレハーノフが友好の握手をし,シュトゥットガルト大会(1907)では,レーニン,ローザ・ルクセンブルクらの,社会革命への展望を含む修正案を採り入れた反戦決議がなされ,コペンハーゲン大会(1910)では,軍縮問題が討議された。さらに,バルカン戦争の起こった12年には,22ヵ国545名が急遽(きゆうきよ)バーゼルで大会を開き,反戦の誓いを新たにした。しかし,反戦問題や植民地問題,移民問題の討議を通じて意見の相違も明確になっていった。一つは,ドイツ社会民主党の組織温存主義的な傾向に対する,とくにフランス人の反発(アムステルダム大会でのベーベル=ジョレス論争)に見られるような各国の伝統と状況に由来する違いである。いっそう深刻だったのは,革命を志向し帝国主義を批判する左派と,改良に重点を置き植民地領有・移民制限に原則的反対を唱えない右派との対立である。カウツキーに代表される〈中央派〉が組織統一の理論を提供したが,14年8月,第1次世界大戦の勃発に際して,第二インターナショナルは実際に国際的な反戦行動を取ることができなかった。その月ウィーンで開催されるはずだった第10回大会は実現せずに終わり,組織は弱体化した。

 大戦中,左派はコミンテルン

西川 正雄
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インターナショナル

労働歌。パリ・コミューンのとき,革命家で詩人のE.ポティエが1871年に作った詩に,ドジェーテルPierre Degeyter(1848-1932)という素人作曲家が88年に作曲した。労働運動のなかで広く歌われてきたが,革命後のソ連邦では,1944年に新しい国歌が採用されるまでは国歌として歌われた。旧ソビエト共産党の党歌に定められていた。日本でも〈インター〉として,1922年ころから労働運動のなかで広く歌われている。〈たて,うえたるものよ〉の冒頭句で知られる訳詞は,佐野碩と佐々木孝丸のものである。

森田 稔