平凡社 世界大百科事典

スコータイ朝

タイ族最古の王朝。メナム(チャオプラヤー)川支流のヨム川流域の都邑スコータイとシーサッチャナーライを中心に,13世紀から15世紀まで栄えた。中国史料の〈暹(せん)〉がこれに比定されている。もとカンボジアのアンコール朝の支配下でクメール人大守が統治していた。ジャヤバルマン7世の死後,同朝の勢力が衰えると,タイ人土侯が反乱してスコータイを占拠し,タイ人の国家を建てた。その時期は1220年ころと推定されている。スコータイの支配域は,はじめ首都の周辺数十kmの範囲を出なかったが,第3代ラーマカムヘン王(在位1279?-1316?)のとき急激に成長し,北はルアンプラバンから南はナコーンシータマラート(リゴール)まで,東はメコン川沿岸地方から西は下ビルマのペグーに至る広大な地域へと支配圏を拡大した。92年ころから元朝に入貢,この間中国から製陶技術が伝えられ,アユタヤ朝の一部に併合され独立を失った。

 しかしアユタヤ朝の一地方国主となったのちも,スコータイ王家の家系は断絶していない。1569年ビルマ軍がアユタヤを滅ぼしたとき,ビルマ王はスコータイ王家の血を引くマハータンマラーチャーを,属国としたアユタヤの王位につけた。その子ナレースエンはビルマの支配に抗して立ち上がり,タイの独立を回復した。かくしてスコータイ王朝がアユタヤに再現されることとなった。

石井 米雄

美術

この王朝の美術は仏教美術であり,その仏教美術,さらには仏教建築は,以降のタイ美術・建築の模範となる基礎として確立された。したがって,この王朝の美術は一般に,タイ国美術史における古典期に相当するといわれる。例えば,スコータイ様式と一般に呼ばれる仏像は,頭上に火炎状のものがとび出し,顔は全体に卵形で,眉毛が弓状をなし,伏し目で,鼻がオウムの口ばしのように,そして唇がうすく微笑をうかべている。このような特徴の仏像が多くつくられたが,この様式の仏像は,当時の諸王がスリランカより上座部仏教を受容したことにより,そのスリランカ仏を模倣したものであった。最も注目されるのは,丸彫で表された,歩いた姿の仏像(遊行仏)の出現である。建築も,〈プラ・チェディー〉と称する仏塔に見られるように,まさしくスリランカの仏塔の模倣であった。またスリランカより伝えられた仏足石がいくつか残り,王宮のバラモン僧たちによるヒンドゥー教の神像(青銅製)も残っている。その他,しっくい製の浮彫や,線刻画も目をひくが,このころつくられた陶器は,その後,日本にも伝えられ,宋胡録焼として有名である。

伊東 照司