平凡社 世界大百科事典

バクーニン(Mikhail Aleksandrovich Bakunin)

ロシアの革命家,アナーキズムとナロードニキ主義の理論家。貴族の出身で,軍人としての教育を受け将校となったが,1835年転身を望んで退役,36-40年モスクワに移り,ドイツ哲学に親しんだ。その間,スタンケービチ,ベリンスキーらと交わった。40年からベルリン大学で学ぶうちヘーゲル左派を介して政治に傾き,《ドイツにおける反動》(1842)を著し,さらにプルードン,ワイトリング,レレベルらと接して,社会主義とパン・スラブ主義への共感を強め,ついに亡命を決意した。48年に革命気運が高まるや各国へ飛んで決起を呼びかけ,翌年ドイツのドレスデン蜂起で逮捕され,ロシア政府の手に渡って政治監獄へ幽閉の身となった。のち減刑されてイルクーツクに住むうち逃走を計画,日本,アメリカを経てロンドンに渡った。

 同地でゲルツェンの革命雑誌《コロコル》に協力するが,戦術をめぐって対立,イタリアへ移って国際同胞団Internatsional’noe bratstvoを結成,67年平和自由連盟大会に出席し,その綱領とすべく《連合主義,社会主義,反神学主義》を書いた。翌年スイスに転じ,《人民の事業Narodnoe delo》誌を刊行,また国際社会民主同盟を結成,のち解散の形をとって第一インターナショナルへの加入を果たしたが,バーゼル大会でマルクス派との対立が明らかとなった。かたやネチャーエフと協力してロシア向けの革命文書を書き,祖国の革命に変わらぬ関心を示した。反権威主義を掲げたバクーニンは,マルクス派との対立を深め,秘密結社ジュラ連合を設立して自派を強化,72年の彼の除名後もなお両派の応酬は続いた。《あるフランス人への手紙》(1870)でフランスの決起を促し,翌1871年パリ・コミューンが誕生すると,これを強く支持した。この年《鞭のゲルマン帝国と社会革命》《神と国家》などを著し,2年後の73年には《国家制度とアナーキー》を書き上げて引退を決意,数年後ベルンで死んだ。クロポトキンと並び,日本の社会運動にも強い影響を及ぼしてきた。→アナーキズム

左近 毅