平凡社 世界大百科事典

ユーロコミュニズム

西欧のいくつかの共産党が,旧ソビエト連邦に代表される伝統的な革命戦略と社会主義体制のモデルを批判し,それらの国自身の社会的・政治的状況に応じた戦略と体制像を追求しようとした傾向を指すことば。広義には,ヨーロッパに限らず,発達した資本主義国の共産党(たとえば日本やオーストラリアなど)がこのような動きを示す場合にも用いられる。この用語が広く使われたのは,1970年代後半であった。それはこの時期に,イタリア,スペイン,フランス3国の共産党が,歩調をそろえてソビエト的社会主義を批判し,各国の政治的変革について独自の戦略を強く打ち出し,また共産党を含んだ政権が成立する可能性さえ指摘されていたからであった。

 ソビエト的モデルの特徴は,革命の方法としての二重権力と武装蜂起,政治支配の形態としての一国家一党制,そして経済的システムとしての中央集権的計画経済の諸点に要約される。これに対しユーロコミュニズムの諸党は,平和的移行,プロレタリア独裁という用語の廃止,複数政党制,言論・思想の自由の保証を掲げた。また,この立場からソビエト連邦内の反体制派への抑圧を非難し,政治的民主主義の回復を求めたのである。1930年代から50年代にかけて定着したソビエト的社会主義,いいかえればイタリア共産党にとっては,慢性的な内閣危機と,経済不況のなかで,保守のキリスト教民主党との大連合(いわゆる歴史的妥協)を通じた変革の道を容易にするために,またスペイン共産党にとってはフランコ独裁体制の崩壊と民主化を促進し,そのなかで有力な地歩を占めるために,ユーロコミュニズム的路線はいっそう必要とされたのである。

 このような動向に対し,レーニン主義の組織原則である〈民主的中央集権主義(民主集中制)〉は依然として正統とされ,党官僚制の改革への道が開けなかったことが挙げられる。

 ユーロコミュニズムの一角は,1977年秋フランスで崩れはじめる。国有化,社会政策,防衛問題などをめぐって社会・共産両党間の対立が激しくなり,翌年の総選挙で勝利を確実視されていた左翼連合は大敗した。それとともにフランス共産党は,伝統的なモスクワ寄りの姿勢を復活させ,〈ソビエト社会主義の成果〉を肯定し,ソ連軍によるアフガニスタンへの介入,ポーランド〈連帯〉への抑圧を是認するにいたった。ユーロコミュニズムは分裂し,代わってイタリア共産党のベルリングエルとミッテランやブラントらのヨーロッパ社会主義政党の指導者との会談が行われ,〈ユーロ・レフト(ヨーロッパ左翼)〉ということばも使用されるようになった。1980年代に入ってフランスとスペインでは社会党主導の政権が成立し,共産党の勢力は後退した。イタリアでも共産党の伸張は頭打ちとなり,社会党首班の連合政権が成立した。

 1960年代以来日本共産党が掲げてきた〈自主独立路線〉は,ユーロコミュニズムということばが登場する以前から,その内容を先駆的に示してきたという側面がある。ソビエト連邦,中国からの〈大国主義的干渉〉に対する同党の反発は一貫して激しかったからである。

 ソ連・東欧社会主義体制の崩壊,冷戦の終結以降,ヨーロッパの共産党は各国の政治状況に応じて多様な道をたどっている。たとえばイタリア共産党は分裂し,その穏健な部分は〈左翼民主党〉と党名を変え,社会民主主義に転換した。1996年の選挙では同党が率いる中道左派連合が勝利し,政権を担っている。フランスでも1997年の議会選挙で左翼連合が勝利し,共産党は13年ぶりに政権に復帰したが,依然として〈労働者主義〉の伝統が強く,ヨーロッパ通貨統合などをめぐって社会党との緊張関係を保っている。

野地 孝一