平凡社 世界大百科事典

ロシア社会民主労働党

ロシアのマルクス主義政党。マルクス主義が社会民主主義としてロシア人に初めて受容されるのは,亡命中のP.B.ストルーベに委任した。

 大会後,約500名の活動家が一斉逮捕され,創立された党は名前だけの存在となり,各地に小グループが孤立する状態が続いた。この分裂状態の中で党再建のイニシアティブをとったのはシベリア流刑を終えたレーニンらのグループである。彼らは〈労働解放団〉と協同し,新聞《イスクラ》を武器に理論を練り,組織を整え,自派の優位を確保したうえで,1903年夏ブリュッセルで開かれた事実上の党創立第2回大会に臨んだ。大会には数千名のメンバーをかかえる26組織の代表57名が参加,21日間の日程で綱領,規約,戦術などをイスクラ派優位の中で決定した。しかしブンドと経済主義者は中途で退場し,イスクラ派も党組織問題で,党員を職業革命家に限ろうとするレーニンらボリシェビキ派と大衆的労働者党を主張するマルトフらメンシェビキ派に分裂した。レーニンの《何をなすべきか》(1902)の見解表明以来党内に芽生えた対立がここに公然と衝突したのである。以後,両派はおもに党論を軸に激しい論争を展開し,ロシアの運動への影響力を喪失した。対立はその後,05年春にボリシェビキがロンドンで自派のみの〈第3回〉党大会開催を強行するまでに至った。

 永久革命論)を唱え,レーニンは労農独裁論を打ち出した。革命が10月にペテルブルグのゼネストで頂点に達すると政府は譲歩し〈十月宣言〉で国会開設と自由を約束した。党活動は自由になり,亡命者も帰国した。下部からは党の統一を求める声が高まり,ボリシェビキ,メンシェビキの両派は別個に協議会を開き統一を決議した。革命の性格をめぐって両派の機関紙で永続革命論が展開され,支持を得ていった。しかし革命はここまでであった。労働者と農民の運動に恐怖を感じたブルジョアジーは反革命の側にまわり,革命は退潮に向かった。敗北の過程でロシアの後進性が再認識され,党は大勢としてブルジョア革命論に復帰していった。しかしながら,党の勢力は革命で急増し,06年春のストックホルム〈統一〉党大会時には党員数は約8万,07年春のロンドン党大会時には約15万に達した。

 しかし07年6月のインターナショナルが崩壊すると,党の各派は戦争に対する態度の問題で混乱したが,戦争を帝国主義戦争として非難する国際派と祖国擁護派にほぼ二分された。

 17年に二月革命が勃発すると,党の大勢はブルジョア革命の立場に立ち,組織統一が進んで統一大会の日程を決めた。しかしレーニンが帰国して〈四月テーゼ〉で革命を第二段階のプロレタリア革命に転化するよう呼びかけると,ボリシェビキはこれに従い,ブルジョア革命の立場を守ったメンシェビキと分離していった。ブルジョア臨時政府はやがて社会主義者の入閣により補強されたが,民衆の望む〈平和,パン,土地〉を与えることはできなかった。民衆はこれらを約束するボリシェビキのほうへ流れ始めた。メンシェビキ内ではマルトフら国際派が力を増し,社会主義政党が連立政府を組織して問題を解決するよう主張し成功するかにみえたが,ボリシェビキの十月武装蜂起に機先を制せられ失敗した。ボリシェビキ内にも単独政権に不安を感じるロシア革命

高橋 馨