平凡社 世界大百科事典

催眠

催眠暗示によって特殊な心理・生理的状態をひき起こすこと,およびその状態をいう。欧米語はギリシア語のhypnos(眠り,その擬人化Hypnosは眠りをつかさどる神)に由来する。催眠という言葉が示すようにカタレプシーなど異常な行為が可能となり,感覚閾値(いきち)の変化や特異な記憶,思考が生じる。生理的には睡眠よりもむしろ覚醒時に近いことが脳波や脈搏などを指標にした研究で明らかにされている。いわば〈意志の麻痺した状態〉(フロイト)であり,催眠性トランスと呼ばれる,正常時とは異なった意識状態である。催眠のかかりやすさ(催眠感受性)には個人差があるが,たいがいの人は適切な動機づけによって催眠状態に入る。性差は明らかでないが,成人に比して児童は催眠感受性が高い。

 催眠ないしそれに類した現象はその神秘性から世界各地で,おもに宗教的儀礼や呪術的治療に欠くべからざるものとして,古くから人々の関心をひいてきた。しかし催眠が科学的研究の対象となったのは,18世紀後半のパリにおける一治療法の流行からである。ウィーンの医師メスマーは,種々の病気は動物磁気なる一種の流動体に起因すると考え,身体の動物磁気の分布の歪みを磁気を帯びた物体に触れることで矯正することにより治療しうるとして,パリで多くの患者を集めたのである。治療の際,患者は一種の催眠状態に陥った。この神秘的な治療法の流行に対して,1784年フランス政府は化学者ラボアジエをはじめとする調査委員会を設置し,真相の解明にあたらせたが,委員会は骨相学を援用した理論を提唱した。ブレードの理論は今日ではそのままの形で受け入れられるものではないにしても,彼は暗示のもつ重要性に気づいていた。そして,この点をさらに明確に主張したのが,フランスの医師リエボーA.A.LiébaultとベルネームH.Bernheimであった。彼らは催眠が暗示という心理的な要因によってひき起こされるものであり,神秘的な力や物質によるものではないことを明らかにした。しかし,その影響は精神分析など力動的精神医学の誕生の萌芽となったものの,実際には催眠は見世物や興行などの対象となることが多く,心理学や医学,生理学などの各研究領域から実証的・基礎的研究が活発に行われるようになったのは,第1次大戦以後である。一方,日本でも明治から大正時代にかけて民間の同好の士たちにより幾つかの催眠研究会が設立されたり,哲学や心理学,医学の専門家たちの手による研究会が開かれてはいたが,科学的研究の対象としてとり上げられることは少なく,そのような気運が起こったのは第2次大戦以降であった。

 暗示によって姓名など記憶を失ってしまう催眠性健忘や催眠中に暗示された行為を催眠からさめた後に実行し,本人もその理由がわからないといった後催眠行動など,複雑な催眠現象を包括して説明する理論は,現在のところまだ提出されていないが,生理学的な理論として,大脳の制止効果による部分的睡眠説や条件反射の一種とする条件反応説があり,心理学的理論として,設定された目標を達成しようとしたり,暗示によって示される役割を積極的にとろうとする目標努力説,役割説や精神分析学を援用した感情転移説などがある。なお,体の一部を強く圧迫されたり,強制的に拘束された動物が不動状態を呈し,これを動物催眠animal hypnosisと呼ぶこともあるが,人間の催眠とは区別すべきである。→無意識

秋谷 たつ子