平凡社 世界大百科事典

刑吏

刑罰,とくに死刑の執行にあたる人をいう。死刑が存在するかぎり何らかの形で刑吏が必要とされるが,死刑のあり方が違うと刑吏の存在様式も異なってくる。古ゲルマン時代には刑吏は存在せず,タキトゥスの《ゲルマニア》では〈人を死刑,投獄,笞(ち)刑に処する権限さえ,ただひとりの司祭にのみ許され,……神の命によってはじめて行われる〉(第7章)と書かれている。13世紀ごろまで処刑を執行する人間は高貴な出身の者であるばあいが多く,ときには後にいたるまで共同体構成員が全員で処刑に当たった。しかし13~14世紀以来刑吏という職業が誕生し,同時に賤民の最下層に位置づけられていった。刑吏と皮剝ぎはしばしば同一人物が営み,いずれも賤民職とされた。高貴なる仕事としての処刑から賤民の仕事としての処刑へのこの大きな変化の原因は,刑罰をめぐる考え方が13~14世紀を境にして大きく変化したことに求めることができる。

 古ゲルマン時代においては犯罪が起こったとき問題となるのはその犯罪によって生じた社会の傷をいやすことであり,法は傷ついた秩序の再生を目ざすものであった。犯人ではなく犯行が法の中心問題であったから,処刑とみなされる行為も呪術的,神的な行為にほかならなかった。ところが都市が成立し,古ゲルマンの宗教に代わってキリスト教が普及してゆくにつれてこのような呪術的観念はうすれ,犯罪の原因は個人の犯意にあるとみなされるようになる。ローマ法の導入によって拷問も行われ,自白が強要されるようになってきたとき,刑吏は拷問を行う国家権力の代理人として登場する。この段階で国家権力はかつてのような神的性格をもはやもってはいない。このような宗教的,社会経済的背景の変化のなかで処刑がみせしめのために行われるようになったとき,賤民としての刑吏が登場することになる。フランス革命当時のサンソンSanson家やニュルンベルクのフランツ・シュミットFranz Schmidtなどの有名な刑吏は日記をのこしており,そこから近代の刑吏のあり方をみることができる。

阿部 謹也

中国の刑吏

宋代,笞杖(ちじよう)刑を執行した五伯(ごはく)は世襲の賤隷であるというが,本来軍人に起源するようである。清代,絞刑は絞手(こうしゆ)によって執行された。また斬刑の執行人は劊手,鬼頭手)と称され,定員は10人,刑部に所属した。京師の北京では数家のものが姜(きよう)姓を名のり,明代からこの役を世襲していた。笞杖刑でも執行の仕方によっては死に至らしめるのも可能であったから,受刑者は手ごころを加えてもらうため,しばしば刑吏に賄賂(わいろ)をつかった。剝皮(はくひ)・凌遅(りようち)などの極刑は生きながら皮を剝ぎ,また肢体を断つもので,すぐには絶命させないための相伝の手順と技術があった。そこで凌遅の際には,はやく絶命させたうえで刑を執行されることを期待して賄賂を行うこともあった。刑吏の方でも,絞刑の場合など賄賂がなければいく度も絞めなおすなどしたという。すでに宋代,賄賂によって死刑囚に毒薬を与えるなどして死刑の執行を妨げる行為についての禁令がある。

 なお,近世の日本では,刑罰

植松 正